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桜並木を見上げた夜には(1)

 駅前のロータリーからまっすぐ伸びている道路の両側に、桜の木々が遠くまで続いていた。
 まだ日は高く、よく晴れた休日、都心から電車で三十分ほどの場所にあるこの街の、まざまな店が立ち並ぶ広い歩道を人々が行き交っていた。
 追いかけっこをする子供達、これからどこへ行こうかと相談するカップル、仲良く手をとりあう老夫婦。ささやかな幸福に満ちた声ばかりが聞こえていた。
「パパ、ママ、すごいね。こんなにたくさんの花!」
例年通り見事に咲き誇る桜を見上げ、両親とつないだ手を元気よく振りながら、少年は言った。
  「そうだな、今年も桜がきれいに咲いたな」
「春になればいつも咲くの?」
「そうよ。来年、二年生になったらまた来ましょうね」
「うん、絶対だよ。来年も三人で来ようね」
 そんな中、誰もが誰かと歩いている中、たった一人で歩く女がいた。周囲の陽気な雰囲気とはかけ離れた、寂しげな表情だった。

 わたしにはそれは無理。来年の桜を見るのは。今年だけ。今だけ。

   彼女が名残惜しそうに桜から目を離し、来た道を引き返そうとしたそのとき、すれ違いざまに一人の女性が彼女の顔をのぞき込んだ。
「あら、美季じゃない」
「洋子」
目を合わせた二人の間に一瞬、沈黙が訪れた。
「この間はごめんなさい。私、ひどいことを言ってしまって」
「いいのよ、もう」
「でも私、あなたが幼稚園を突然辞めた事、あんなに責めてしまって」
三週間ほど前、共に働いていた洋子に何も告げず、美季は職場を去ったのだ。
そのことを知った洋子は、裏切られた思いを電話で責め立てた。
すまなそうにしている洋子に美季は、小さな笑顔で答えた。
「いいのよ、気にしないで」
「でもね、私、あなたがあんなに生き生きと子供達と接して、子供達も美季のことが好きなのに、何で辞めなきゃならないのかわからなくて。辞めて欲しくなかったのよ。あ なたみたいな先生、ほかにはいないのよ」
友人としてのつきあいもあったが、職場では美季に一から指導を受けてきた洋子は、よき先輩として彼女を尊敬していた。
「ありがとう、洋子」
 今の美季にはそう答えることしかできなかった。
「園長先生も、あなたが辞めた理由、知らなかった」
 さらに洋子が問いかける。
「ねえ、どこか具合でも悪いの?ちょっと痩せたみたい・・」
 長い沈黙が訪れた。美季は桜を見上げた。目の前にいて、自分のことを心配してくれている洋子に全てを打ち明けたい衝動に駆られた。

 そうよ、私、あと一年ももたないの。
 でも、どうせ一年だったら、何かしたい、何か人らしいことをしてから終わりたい。
 それが何かはわからないけれど。

 美季の心の叫びに気づくはずもなく、これ以上どう言葉を発してよいか戸惑っている洋子に美季は言った。
「ごめんなさい。幼稚園のみんなによろしくね」
「翔太くん、あなたがいなくなってから、ずっと元気無いのよ」
「・・・」
翔太というのは美季が受け持っていた組の園児の中で、とりわけ彼女になついていた子供だった。大きくなったら先生と結婚するんだ、などと言ったこともあったほどだ。
 そのときの翔太の、子供ながらにも真剣な眼差しを思い出し、美季は言葉に詰まった。
いつかはどこかで、誰か違う女性に同じ言葉を言うことになるのだろう。
 と、前方に、咲き誇る桜の木々を見上げながらゆっくりと歩いている青年が二人の目に入った。彼は一本の木の下で立ち止まり、感慨深げに何かをつぶやいていると、突然  鳴り出した携帯電話を慌てて取り出した。
 「はい、今着いたところです。すぐにとりかかります」
 その様子を見ていた洋子が言った。
「こんなにいいお天気なのにお仕事なんて、大変ね。営業さんかしら」
 青年は自分が二人に見られていたことに気づくと、ちょっと照れた様子だったが、美季の顔を見た途端、何かに思い当たったように真顔になった。
「君は・・・」
「え?私?」
 美季が自分を指差すと
「いや、何でもありません、すみません」
 と言ってすぐにその場を立ち去ってしまった。
 洋子が聞いた。
「知っている人?」
「いいえ」
 でも、私のこと、知っていたみたい。

   翌日の午後、美季はお気に入りの喫茶店にいた。駅から南へ伸びている大通りを一〇分ほど歩いた商店街との交差点のそばにあり、昔から彼女の一番落ち着ける場所だった。
 四つほどあるテーブルは、どれも空いていたが、彼女はいつも通り、カウンターの一番奥で一人コーヒーを飲んでいた。
美季は、読みかけの文庫本をバッグから出したそのとき、入ったときは誰もいなかったはずの近くのテーブルに、いつの間にか男性客が一人いるのに気づいた。昨日の青年 だった。
 何やら辛そうな表情をしていた。
 確か昨日、駅前の桜並木にいた人だ。具合でも悪いのかしら。こんなにおいしいコーヒー、ほとんど口をつけていないみたい。
 そのとき、青年は何かを思いついたような表情をしたかと思うと突然立ち上がり、ポケットに手を入れ、レジへ向かった。が、ポケットに何も無いことに気づくと立ち止ま り、手のひらをじっと見つめた。そしてゆっくりこぶしを握ると、あらためてレジへと向かった。
 何も入っていないグーの手のままレジへ行ってどうするつもりかしら。
 好奇心に駆られて青年の行動を凝視していた美季は驚いた。彼がレジで握っていた手を開くと、硬貨が何枚か現れたようなのだ。
 おかしい、確かに私、見ていたのに。
ごく普通に金を払った青年はマスターに「ごちそうさま」を言ってから、この近くにマンションを見下ろすことのできる公園があるか、と尋ねた。マスターが、ああ、それならきっとあの高台の公園だ、とその場所を教えると、青年は礼を言い、急ぎ足で店を出て行った。
 変わった人。さっきまであんなに辛そうな顔をしていたのに。

   美季が喫茶店を出ると、空はもうオレンジ色だった。
商店街を西へ少し歩いたとき、道の反対側のスーパーから、買い物を終えた子供連れの主婦が出てきた。その子供は美季の姿を見るなり、ろくに左右も確かめずに道路をこちら側に向かって駆け出した。
「あ、先生だ!」
「こら翔太!危ないよ!」
 母親が言うのも聞かず、目を輝かせながら美季の方へと走ってきた。
「あら、翔太くんじゃない」
 美季が母親と挨拶していると、翔太が元気な声で割り込んできた。
「先生、先生、どうして幼稚園からいなくなっちゃったんだよう。びっくりしたんだから。ぼくだけじゃないよう。彩香ちゃんだって洋平くんだって、みーんなびっくりしちゃったんだからね」
「これっ、しょうがないじゃないの。先生には先生のご都合があるんだから。すみませんねえ、わがまま言っちゃって」
「いいんですよ。私が突然辞めてしまったのがいけないんですから」
「あっ、先生、ぼくと約束したじゃないか、ぼくが大きくなったら結婚してくれるって」
「何言ってるの、この子ったら」
「だって先生のこと、好きなんだもん。それに約束したんだもん。そうだよね、先生?ぼくが大人になるまで待っててくれるって、約束したんだよね」
美季はうん、うんと頷くことしかできなかった。
「本当にどうもすみません、馬鹿なことばかり言ってしまって。ほら、もう行くよ。サッカーボール、買うんでしょ。それでは失礼しますね」
 母親に引っ張られながらも、翔太は遠くから美季に叫んでいた。
「約束だよお、絶対だよお!」
 美季の表情は固まってしまったままだった。何とか笑顔を崩さずに、翔太に手を振るのが精一杯だった。

 ごめんね、翔太くん、本当にごめんね。お絵かきも、お遊戯もできなくて。一緒にお弁当を食べることもできなくて。せめて来年の卒園さえ見届けたかったのに・・・
 本当に、ごめんね。

 翌日。今日も美季はお気に入りの喫茶店の、いつもと同じ席でコーヒーを飲んでいた。
 子供を幼稚園に送り届けた後かと思われる若い主婦たちの会話が、彼女の近くのテーブルから聞こえてきた。
「それにしても捕まってよかったわ」
「ほんと、小さな女の子ばかり狙うなんて、気味悪いもの」
「でもおっかないわねえ。犯人は、普通の人どころか、公務員だったっていうじゃない」
「うっそー!本当なの?」
「そうらしいわよ。それも職場じゃ、『真面目ないい青年』で通ってたっていうじゃない」
「でもイヤねえ、高台の公園からマンションを眺めて、女の子のいる家をあらかじめ見張ってたんでしょ」
「そうそう、それで、母親が出かけたところを見計らって『トイレかしてください』なんて言って油断させて部屋に入ってイタズラしてたっていうんだから」
「でも昨日、ようやく捕まったってわけね」
「でもちょっと変なのよ」
「変?」
「侵入した二階の家のベランダから落ちたところを警官に見つかったんだって。それがじつはさ、下はあたしの妹ん家だったのよ。妹が部屋片付けててさ、突然影がサーって 走ったと思ったら次の瞬間、外でドサッっていう音がして、何事かと思って窓の外を見たら、花壇に男の人が倒れてたんだって」
「へえー」
「それでさあ、妹の言うにはその男、『消えた、消えた、俺の腕から消えたんだ』って、そればっかり言ってたんだって。そしたらちょうどおまわりさんが来たのよ」
「すごい偶然ねえ」
「それがね、そのおまわりさん、『このへんで交通事故はありませんでしたか?』って顔出してた妹に聞いたんだって」
「交通事故?」
「そう。おまわりさんは誰かに、そのマンションのそばでぶつかった車の運転手同士が大喧嘩してるからって言われて来たらしいのよね」
「どこかで喧嘩してたわけ?」
「それが、そんなことは全然無かったのよ。喧嘩も事故も」
「不思議ねえ、だけどおまわりさんが来てよかったわ」
「それがその犯人さあ、よっぽど気が動転してたらしくて、おまわりさんにも『消えた、消えた』って言ってんのよ。おまわりさんが『何がですか?』って聞いたら、母親が出かけて女の子が一人になったのを確認して侵入したことから、その子を抱き抱えた途端に消えちゃったっていう話を懸命にしてたって。そこで初めて『そうか、コイツが犯人か』ってなったわけよ」
「でもさあ、何で二階から落ちてきたのかしら?」
「そうそう、それも変な話でね、その犯人、女の子が消えたっていうんで怖くなっちゃって逃げようとしたんだって。でもドアを開けようとしたらノブが焼いてあるみたいに熱くてとても開けられなかったんで、外の壁をつたって降りようとしたんだってさ。何言ってんだかわけわからなくて、おまわりさんも困ってたみたい。で、とりあえず無線で応援を呼んでるところに帰って来たのよ」
「誰が?」
「二階の女の子。とその母親」
「じゃあ最初っからいなかったわけね。あたしは女の子が犯人のすきをついて逃げたのかと思ってた」
「あたしも」
「自分の家の下に警官がいるから母親も気になって近づいてきたんだって。そしたら犯人、女の子を見た途端に目丸くしちゃってその子を指さして、さっきまでやっと上半身 起こしてたのに、また倒れちゃったんだってさ。おまわりさんは念のためその母親に、二人で出かけたか聞いてたけど、ええと確か、一人でポストに行こうとしたら娘がつい てきちゃった、とか言ってたって。その子にも聞いたけど、きょとんとしたまんまで、犯人の顔も知らないって」
「わけがわからないわね。それでその後どうなったの?」
「ごめんなさいね、そこで妹に電話がかかってきちゃったのよ」
「あら、そうなの」
「出張から帰ってくる旦那を迎えに行くことになってて、その待ち合わせの電話だったっていうから。すぐに出なきゃならなくなったみたいなの」
「あら残念、なんて言っちゃいけないわね」
「いいのよ、あたしだったら電話なんかでないわよ。でもね、妹は言ってたのよ。その犯人、左手に子供の靴下みたいなもの持ってたって。それで女の子の足を見たら、片方 しか靴下はいていなかったって」
「本当?」
 変な話。でも、女の子は無事だったし、犯人は捕まったし。めでたしめでたしね。
 ふと気づくと、悩んだ様子の例の青年がいつの間にか、昨日と同じテーブルにいた。
 何か深刻な問題で悩んでいるようにも、やや疲れているようにも見えた。
 と、青年は前回と同じように何かを思いついたような表情をしたかと思うと、急いで会計を済ませて店を出て行った。
 今度は何かしら。昨日は確か、高台の公園に行ったわ。マスターに場所を聞いていたもの。そうしたらあの公園のそばのマンションで事件があったっていうじゃない。偶然 かしら、いいえ、きっと何かあるに違いないわ。よし、今度は私も行ってみよう。
彼女もすぐに席を立ち、コーヒー代を払って店を出た。
商店街を行く青年を逃がすまいと美季も歩調を速めたとき、後ろから消防車がけたたましいサイレンを響かせて通り過ぎて行った。
 店では疲れた様子の青年だったが、大股で道を進む後ろ姿には力がみなぎっていた。
 人も多く、青年の足があまりに早いので美季は彼を見失ってしまったが、その先で火事が発生しているらしく、空には黒い煙が立ち昇っていた。
 現場は空き地に面した、古めの二階建木造アパートだった。すでに大勢の野次馬が集まっていた。
 火の勢いは強く、消防隊員が苦戦を強いられていた。
 一人の女性がまわりの人に止められながらも、燃えているアパート二階に向かって叫んでいた。
「まだいるのよ、うちの息子がまだあの中にいるのよ。早く誰か、何とかしてちょうだい!」
 彼女が指さす二階の窓から、小学生くらいの男の子が顔を出して叫んでいた。
「ママ!ママ!熱いよう!」
 子供の背後、部屋はすでにどす黒い煙で覆われていた。消防隊員たちは、消防車をアパートのすぐそばぎりぎりのところに寄せ、梯子を伸ばして子供を救出しようとしてい るが、吹き出す炎と濛々たる煙に邪魔されて思うように動けないでいた。

 ああ、どうしてなの?あの子が焼け死んでしまうくらいなら、私の命を早く奪ってくれればいいのに。人の生き死になんて、たいした違いは無いのよ。どうせ誰かがちょっとだけ早く終わって、誰かがちょっとだけ長いだけ。神様なんているわけない。いるのだったら、こんなにひどいことなんかしないはず。

 美季は決心して一人空き地を出てアパートの入り口にまわり、燃え盛る階段に向かった。
 が、同じく入り口側から突入を試みていた消防隊員に止められた。
「やめなさい!無茶だ!我々も入れないのに!」
 二度と見たくない炎。思い出したくない過去。
しかし彼女の決心は変わらなかった。

 何だってできる。今の私には。

 美季はそのまま制止を振り切って階段を駆け上がった。消防隊員は仕方なく、放水を強化して援護した。

 どうせ私は死ぬ、だったらあの男の子を助けてからよ、それまでは絶対に死なないから。

 二階の部屋の前にたどり着いた美季は、ひるむことなくドアを蹴飛ばした。
「大丈夫?まだ無事よね?返事をしてちょうだい?」
 すでに部屋中火がまわっていた。が、彼女は驚くべき光景を目の当たりにした。
 燃えている部屋の中央で男の子が、あの青年に抱き抱えられていたのだ。
「どうして?」
美季の疑問をよそに、青年はすぐに彼女のそばへ近づき、男の子を彼女にそっと渡した。
「この子は無事だ、早くお母さんのところへ」
 そう言うと、彼女の肩をつかんでくるっと反対方向へ向けて背中を軽くたたいた。
「早くするんだ、もうすぐ全て燃えてしまう」
 彼女はまるで催眠術にでもかかったかのように、言われるままに燃え続ける部屋を出た。

どうして?どうしてなの?少しも熱くない。それよりあの人は?まだ中に。

 慌てて振り向くが、すでに部屋の中全てが炎に包まれ、柱も倒れはじめていた。
「ママ」
 男の子が彼女の腕の中で気を取り戻した。美季は急いで崩れそうな階段を駆け降り、男の子を母親のところへと連れて行った。
 無事に戻った息子を、母親はぎゅっと強く抱き締めながら泣き崩れた。
「あのおねえちゃんが助けてくれたの」
「本当に、本当にありがとうございます。あなたがいなければ、今ごろこの子は・・・」
母親は顔をしわくちゃにして何度も何度も美季に礼を言ったが、彼女はそれどころではなかった。
子供の命が助かったことは本当によかったが、あの青年のことや、自分が火傷らしい火傷さえしていないことで、頭がいっぱいだった。
 火もほとんど消え、消火作業も一段落したらしく野次馬たちも少なくなっていた。それでも彼女は男の子を救ったことで、母親はもちろん、その近所の人達の称賛を浴びていた。
 しかし彼女はそんなことには無関心だった。
 警察の調べによれば、出火原因は不明とのことだった。そして二階の男の子以外の住人は出火当時、みな外出して留守だったので、負傷者、死亡者ともにゼロということだった。
 彼女は現場から帰ろうとする一人の警官にそのことを聞くと、青年が死んでいないことに安堵を覚えたものの、ますますわからなくなってしまった。

 どうして?なぜ?あの子を救ったのは私じゃない、あの人よ。あの人が助けてくれた。
 男の子も、そして私も。あの人がいなかったら、二人とも死んでいたはず。それに、そうよ、あの人、きっとわかっていたんだわ。この火事のことを。
 彼は何者?彼はもともとこの現場にいなかったことになってしまっている。でも私は確かに見た、あの燃える部屋の中で・・・。いいわ、絶対につきとめてみせる。 続く


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