story10-1

手料理

「またヒトシくんに私の料理を食べてもらうことになるなんて思ってもみなかったわね」
 コーヒーをテーブルにそっと置いてから奥のキッチンへ戻る陽子さんの楽しげな後ろ姿は、昔のそれと全く変わっていないように見えた。いや、むしろ前よりもずっと嬉しそうに思えた。
 あのころと違っているのは、一体何だろうか。緑色の壁紙や古風な置き時計、家具の配置も、以前に来たときのままのように感じる。そして陽子さんは昔と変わらぬ姿で、再び僕のためにごちそうを作ってくれているのだ。昔との違い、それは陽子さんの年齢だけではないか、と思うくらいだ。僕は彼女が料理を作っている姿を眺めていると、まるであのころに戻ってしまったような錯覚を覚えた。しかし、僕はさっきこの部屋に入ったときから何かが欠けているような気もしていた。
「あたし、おばさんになっちゃったかしら?」陽子さんはこっちを振り返らないまま僕にたずねた。
「いいえ、そんなことありませんよ。昔と少しも変わりませんよ」
「あらあら、本当かしらね。でも、うれしいわ。ヒトシくんにそう言ってもらえて」
 それは本心だった。やはり何年たっても、陽子さんは陽子さんだった。
「ようし、今日は久しぶりにヒトシくんが来てくれたから、とびきりのごちそうを作るわね」
 陽子さんは昔と変わらぬ笑顔で振り向いて、そう言った。

 人の言葉がこんなにもあたたかいものだということを僕はすっかり忘れていた。
 ここしばらくの間、僕の生活は仕事中心だった。仕事以外のことは食事と睡眠しかしていないほどの状態だった。知名度の高いコンピュータ関連の企業に入社して三年、僕は今更ながらこの業界の厳しさを思い知らされた。ここでは常に技術、能力を吸収し続けなければたちまち脱落してしまうのだ。もちろん、向上心を捨てて、ある程度の、誰にでもできる仕事で満足するのであれば必死に取り組むこともないだろう。でも僕は、この世界に入った以上、どうしても上を目指したかった。そのためには言語の習得、プログラム設計、スケジュールや予算の管理、顧客への提案など、ありとあらゆることを勉強しなければならなかった。ほんの少しでも気を緩めてはいけない。たった一つの失敗もしてはいけないのだ。僕は新人のころから、ほんの些細なことで上司に『あいつにはこの作業は無理だ』などという「レッテル」を貼られプロジェクトチームから外され、レベルの低い仕事しか与えられなくなった先輩たちを何人も見てきた。だからこそ自分は絶対にそうはならない、という思いが強くなり、余計なつきあい、不要な会話でさえも極力排除し、仕事だけに集中した。その努力が認められたのか、僕は同期入社の者よりも一足早く重要な仕事を任された。それはある企業のシステム構築のリーダーだった。もちろん僕は自分の力を最大限に発揮しようとした。
 しかし早速問題にぶちあたってしまった。割り当てられたメンバーのうち、一緒に作業をするには明らかに力量不足の人間が一人いたのだ。今まで見ていて、彼の作業には正直言って信頼することができなかった。普通に考えれば彼には実作業をさせずに、書類作成などを中心にやらせればそれですむ問題だろう。しかし彼は同期入社した者であり、新人研修のときには共に苦労した仲だったのだ。いくらなんでも彼だけに違う種類の作業を与えれば、彼のプライドを傷つけることになるのは間違いない。かといって皆と同じレベルのことをやらせてすんなりと作業が進むとはとても思えなかった。かえって修正などの余計な作業が発生するだけだろう。困ったことに彼は、自分の力量不足を自覚していなかった。そして「一生懸命」に長時間働くことをよしとしているふしもあった。短時間で効率的なプロジェクト管理を目指す僕にとっては頭の痛い問題だった。
 やはり上司に頼んでこのチームから外してもらうか。フロアのすみにある、休憩コーナーと呼ばれている、テーブルとソファ、そして自動販売機があるだけの場所で僕は紙コップに入ったコーヒーをすすりながらそんなことを考えていた。十階の大きな窓の外には、七月の青い空がどこまでも広がっていた。そしてビルの真下近くの線路を電車が何回も通るのを僕は結論を出せないままじっと見下ろしていた。
「どうしたっていうの?さっきからずうっとここにいるじゃないの」
そう言って僕の顔をのぞきこんだのは、同期入社の藤枝よしこだった。彼女も僕と同様、上からは良い評価を得ているようだった。そして仕事だけではなく、個人的にも信頼することができたし、好感ももてた。僕は研修の頃から彼女に容姿、人柄、能力全てにおいて好意を抱いていた。そしてこの会社に入社できたのと同じくらいの喜びは、彼女が僕の気持ちに応えてくれたことだった。
 このプロジェクトのサブリーダーに任命されていた彼女に僕は、今自分が考えていたことを話してみた。彼女だったらどうするだろう。
「そう。ヒトシ、そんなこと考えていたんだ」
 入社以来、お互いに良きパートナーだと思っていたはずの彼女は、僕と目を合わせようともせずにこう言った。
「彼を外したいのならそうすればいいわ。あなたがリーダーだもの。でもあなたやっぱり、入社したころと変わってしまったのね。みんな言ってるし、わたしにもなんとなくわかっていたけど・・・」
 僕が唯一信頼できると思っていた藤枝よしこが急に遠くに離れてしまったような気がした。できない人間に何を言われようと気にもとめなかった。しかし、彼女の場合は違った。
入社以来、ひたすら一生懸命にやってきたこの僕の何が間違っているというのだ。
会社は仲良しクラブではないのだ。力不足のメンバーを排除しようとして何が悪い。仕事で完璧を目指すのはあたりまえじゃないか。
 そう強く思ってはいたものの、何をしていても、彼女の僕を哀れむようなまなざしばかりが思い浮かんで仕方なかった。
 まわりの連中はせっせと仕事をしている。僕だけがじっとしたままだった。  せめて一日だけ、この場所から離れて今の状況を見つめ直したかった。幸い、丁度それまでのプロジェクトが、これといった問題も無く完了したところだったので 休みをとることにした。
「わかった。たまにはのんびり考えてみるのもいいだろう。でもな、このプロジェクトが本格的に動き出したらそう簡単には休みなんかとれないから、そのつもりでな。一度動き出したら、決断するのにいちいち考えてる時間なんか無いからな」
「はい」
 その日の帰り、エレベーターで三年ほど上の先輩と一緒になった。その先輩は誰にでも、何かにつけて嫌みを言うので、まわりからあまりよく思われてはいない人物だった。しかし彼は十分な技術と知識をもっていたので、どのプロジェクトでも何か問題が起きると、嫌みを言われることを覚悟しつつ、彼のところに相談するのが日常茶飯事となっていた。
 ほとんど話したことも無いうえに、何かじっと見つめられている気配を感じていた僕が早く一階に着かないかと思っていると、いつもの、人を完全に見下すような視線を向けながら話しかけてきた。
「お前、今度のA社のシステムのリーダーをまかされたんだって?」
「はい」
「そうか」
とゆっくり言って、まるで自分に災難が降りかかったかのようにため息をついてから続けた。
「最初っていうのはさあ、けっこう悩んじゃうんだよね。いろいろとバタバタするからさ。でもお前くらいしっかり調査とか準備とかしていれば大丈夫だよ。けっこう下準備してるみたいじゃん。リーダーなんてさ、すぐに慣れるよ」
同情し、励ますような言葉が出てきたのには驚いた。しかし、一階に着く間際にはこうも言った。
「仕事なんてさ、結局のところは人をいかにこき使うかだよ。そういう俺も上の連中にこき使われているわけだけどさ。ま、頑張ってみてよ」

 翌朝、僕はいつも通り早く起きたが、スーツではなく普段着に着替えてから寮を出た。 会社と同じ、コンピュータの解説書に囲まれた部屋からは一刻も早く離れたかった。何か、ここで間違えた判断をしたらこの先ずっと後悔することになるのではないか、という思いが強くあったから、どこか落ち着ける場所を探したかったのだ。
 そう思って家を出て駅まで行ってはみたものの、僕は行き先を決めることすらできずに、切符の販売機の上にある路線図をただ眺めているだけだった。
 ここしばらくの間、僕は通勤以外の目的で切符を買ったことなど無かった。

 結局特に丁度よい場所が思いつかなかったので、ありきたりではあるけれど、このところ連絡もしていなかった両親に自分がなんとか元気にやっている、ということを見せるために、実家に向かう切符を買うことにした。
 今から思えば、そのあとに陽子さんと出会えたのには何か、特別な力が働いていたと思わずにはいられない。

「でもほんとうにびっくりしたわ。まさかヒトシくんがあのスーパーにいるだなんて思いもしなかったもの」
「僕も、びっくりしましたよ」
「ヒトシくんがあんなに驚いたところ見たの、初めてかもしれないわね」

 実際、驚いたどころではなかった。陽子さんに声をかけられたとき、僕は食品売り場に並べられた何種類もの弁当の中から、どれを昼食にしようかと吟味している最中だったからだ。新たなプロジェクトのリーダーに指名されてからというもの、作業をスムーズに、というよりは迅速に進めることばかりが頭の中にあり、昼食に何を食べようか、などということに頭を使ったことが全くといっていいほど無かったので、弁当を選ぶ、という行為だけで僕はもうすっかり夢中になっていたのだ。
 電車を降りたとき、駅前のロータリーの懐かしい風景を眺め、さて、いよいよ実家に足を向けてみようとしたが、そのときに初めて気づいた。今日が平日だということに。すなわち、共働きの両親は家になどいなくて、ということは僕が久しぶりにわが家に戻っても出迎えてくれる人物などおらず、それどころか鍵を持っていない僕は「ただいま」を言って家に上がってごろんと横になることもできないということを意味するのだった。
 僕は、せっかくとった休みを無駄にすることだけは避けたかったので、他に落ち着くことのできる場所はどこかと考えをめぐらせた。何も食べずに朝部屋を出た僕が決めた行き先は、駅から歩いて十五分ほどのところにある公園だった。
 腹が減ったので駅前のスーパーで弁当を買ってそれを見晴らしのいい公園に持って行きベンチに腰掛けて食べる。それだけのことだ。それだけのことに僕は、大きな期待を抱いて駅前のスーパーの地下へと足を進めたのだ。そしてそこで陽子さんと再会した。

「あれ、ヒトシくん?ヒトシくんでしょ!久しぶりじゃない!」
「陽子さん?」
「ええ、そうよ。ヒトシくん、あなたどうしてこんなところにいるのかしら?」
 僕は仕事が一段落したので実家に戻ってきた、と答えておいた。陽子さんはうん、うんとうなずいてみせ、それからほんのちょっと、一瞬だけ難しい顔をしたかと思うとすぐに笑顔に戻ってこう言った。
「そうだ、夕ごはん、うちで食べていきなさいよ」
「え、陽子さんの家でですか」
「ええ。そうよ。わたしが何か作るわ。何も急いで帰らなくてもいいんでしょ?」
 陽子さんの誘いを断る理由など何も無かった。
「それじゃあ、今から大急ぎで支度するわね。そうしたら、そうねえ、夕方になったらうちにいらっしゃい。待ってるわね」
 そう言うと陽子さんは野菜売り場の方へと歩きだした。が、何かを思い出したかのように立ち止まると、くるっとこっちを振り向いてこう付け加えた。
「そうそう、さっきヒトシくん、一生懸命お弁当を選んでいたけど、お昼は軽いものにしておいてね。夕食はボリューム満点だから」
「あ、はい」
「それじゃ、またあとでね」

 陽子さんの後姿を眺めながら僕は、とりあえず地元に戻って来たにしては、とてつもなく運がよかったことを感じていた。
 何だ、ただの思い出の女性との再会か、と思われるかもしれない。でも、僕にとって陽子さんとの再会は決して「昔を振り返る」だけのことではないような気がするのだ。陽子さんは、たとえこのように出会うことが無かったとしても、僕にとっては単なる「過去」の思い出ではなく、何と言ったらよいかよくわからないが、今現在の僕を構成しているものの一部のような気がするのだ。
 きっとあなたにも一人くらいはいるのではないか。それほど大袈裟なことではなくても、ただ、その人物自体やその人の言葉が、大切なもののように時々思い出されるような人物が。
「あれ、陽子ちゃん、お買い物?このあいだ出してくれた新メニュー、まさかこのスーパーで買った肉じゃないよね?」
 陽気な中年男のひときわ大きな声に振り向くと、少し離れた野菜売り場のところで陽子さんがとびきりの笑顔でその男にこう答えていた。
「違いますよ、あれはこの辺りじゃあ、ちょっと手に入らないんですよ」
「そうだよな、こんなスーパーなわけねえよな。ここは野菜はまあまあだけど肉と魚はいまいちだからな」
「源さんったら」
 手前の肉売り場で商品をていねいに並べていた店員を気にしてか、陽子さんは会話を締めくくった。
「またおいしい料理作りますからぜひまた来てくださいね、源さん!」
「おう、絶対行くとも。今日がおたくの定休じゃなければ行ったところよ。それじゃあ、また今度お邪魔するからさ」
「お待ちしてます!」
 そうか、陽子さんは結局店を手伝っているんだ、とそのとき僕は思った。

隣に陽子さんの家族が引っ越してきて、たまに僕の家にお手製の料理やらお菓子やらをもって来てくれるようになったのは、僕がまだ中学に入りたての頃だから今から十年ほど前のことになるだろうか。
 僕は今でも、初めて陽子さんが彼女の作った料理をもって来てくれたときのことを覚えている。
 それは確か、しばらくの間空き地になっていた隣の敷地で新築工事が始まり、あれよあれよという間に家ができあがったときだった。ある晩、珍しく家族三人そろって、作りたてでもあまり魅力的とはいえない夕食を食べ、隣に来たのははどんな人達だろうか、ということが話題にのぼっていた丁度そのときに、その新しい隣人があいさつに来たのだった。
 ドアを開けると、そこにはうちの親たちと同じくらいの年齢だと思われる二人の男女がいた。
「ごあいさつが遅れて申し訳ありません。このたび隣に越して来ました北澤と申します。よろしくお願い致します」
「こちらこそよろしくお願いします」
などなど、お決まりの言葉が続いた後、
「これはほんのつまらないものですが」
と北澤夫人がきれいに包装された、お菓子かなにかが入っていそうな箱を差し出した。
「あらあら、本当にいいんですよ、そんなに気をつかっていただかなくても」
「いえいえ、建てている間は騒々しかったでしょうから」
 僕は自分がその場にいてもあまり意味が無いと思い、軽く頭を下げて部屋に戻ろうとした。そしてそのときに隣の家の門の開く、ガチャリという音がしたかと思うと、陽子さんが姿を見せたのだ。ナベを持って。
「遅れましたー!」
 一同ぽかんと口を開けたままだった。
 ナベを持った娘に、両親が困ったようにしているのを無視して彼女は言った。
「あのう、これ私が作ったシチューなんですけど、よかったらみなさんで召し上がってみてください。『きたみ』の料理には負けませんよ」
といたずらっぽく笑みを浮かべながら言って、持っていたナベを差し出した。
 彼女の父親が
「いえね、実はわたしどもは、駅の近くで『きたみ』っていう小さな居酒屋を始めたんですよ」
「あら、そうだったんですか」
「ええ。このあいだまで北海道でやってたんですがね、小さくてもいいから東京に店をもちたくてねえ。ええと、何でしたっけ?あ、そうそう、それでこの陽子のやつ、子供の頃からわたしどもの店で育ったようなものでして、勝手に料理作ったりするようになりましてね。でもね、こいつの作るのもなかなかいい味してるんですよ」
「まあ、この人ったら」
 みんなの笑い声で、まるでドラマのようになごやかな雰囲気に包まれた。
「そうですか、それじゃあ、せっかくだから遠慮なくいただきますわ」
 料理が上手とはとても言えない僕の母親がそう答えてナベをしっかりと受け取った。
陽子さんの母親は
「今度、おひまがありましたら、ぜひ店の方にもお越しくださいね」
と宣伝していくのを忘れなかった。
 中学での新しい生活などとは比べものにもならない衝撃を受けたのは確かだった。
僕にとっては、あんなにきれいな人がナベなんか持ってうちに来たということが大きな出来事だったのだ。肩にかかるかかからないかくらいにのばした髪、そこまできつくはないが、ちょっと猫を思わせるような目、たまにテレビでやっている古いアメリカ映画の女優さんのように通った上品な鼻すじ。これほどまでに知的な雰囲気を持ちながらも実際にはざっくばらんに接することのできそうな女性。小学生の五、六年のころから、クラスの中に何人かは「女」であることを必要以上に意識しているような女生徒はいたが、その誰もが、ちょっと言わせてもらうと、何か勘違いしているのではと思ってしまうような髪形、化粧をしていた。何が「勘違い」かというとそれは単純なことだ。みんな流行に飛びつこう、そして遅れまい、としているだけだったのだ。人気タレントと同じ格好をすれば「いい女」になれる、とでも思い込んでいるようだった。
 陽子さんは何もしなくても、そこにいるだけで素敵な女性だった。

僕の家は両親二人で会社を動かしていた。といっても別に大きな会社ではなかった。二人はいつも慌ただしく、僕の夕食はどうしても簡単なものになりがちだった。
慣れてはいたが、テレビを見ながら一人で食べるのはなんとも味気無いものだった。
 そんなときに陽子さんが何やらいい匂いのする料理をもって来てくれたりすると、 僕はうきうきしたものだった。それはラップをかぶせたお皿だったり、ナベだったり、さまざまだった。それがどんな種類のものでも僕には御馳走だった。いつもの作りおきのものを電子レンジで温めるのではなくて、今まさにできたばかりの料理が食べられるというだけで、何か、とてつもない幸運にめぐまれたような気さえした。
「感想、聞かせてね」
 そう言って陽子さんは足早に戻っていくのだった。
 僕はいつもと違うものを食べられるだけで新鮮さを感じていたのと、材料や作り方にはほとんど興味が無かったので、いつも陽子さんが
「お父さん、お母さんにも食べてもらってね」と言ってくれた料理をほとんど平らげてしまうころになると、さて、何と感想を言ったらいいかな、どうせなら親にも残しておいてその感想を聞けばよかった、などという小さな後悔を繰り返していた。
 実際僕は、陽子さんの料理について「おいしい」以外の言葉を口にはできなかった。何がどうおいしいのか、と聞かれていたら本当に困ってしまうところだが、陽子さんは僕を困らせはしなかった。「おいしかったです」と言うと陽子さんは僕の顔を見て「よかったわ」と一言、にっこりするだけだった。友人から言われて気づいたことだが、僕はおいしいものを食べているときだけは妙に嬉しそうな表情になるそうだ。たぶん陽子さんは僕の表情で料理に満足したことをわかってくれたのだろう。

 料理を持ってきてくれることもあったが、逆に僕を陽子さんの家に招待してくれることもあった。たいていは僕がいつものつくりおきの料理をレンジで温めようとするころに陽子さんから電話がかかってくるのだ。
「あ、ヒトシくん?」
「はい。陽子さん?」
「うん。あのね、もうすぐとっておきのお料理ができるのよ。よかったらこっちに来て一緒に食べないかな、と思って」
 すっ飛んで行った僕に陽子さんは
「あともうちょとでできるからね」
 と言ってコーヒーを出してくれた。インスタントのコーヒーしか飲んだことの無いそのころの僕にとっては、豆をひいた独特の香りが漂うだけで大人の雰囲気に包まれたような気がした。
 そして陽子さんは最後の仕上げにとりかかりながらも、待っている僕を飽きさせないために、いろいろと話しかけてくれた。例えば、どんな科目が得意なのか、とか好きな音楽のジャンルは何か、好きなタレントは誰か、などなど、実にさまざまなことを話した。
 そうこうしているあいだに、陽子さんは僕に少しも退屈させることなく料理を完成させるのだった。
 毎回、実にバラエティに富んだ料理がテーブルに並べられた。パスタあり、どんぶりあり、中華あり、その他とにかく何でもありだった。今思い出してみてもすごいと思うのは、どんな種類の料理でも必ず満足できる味だったことだ。
 彼女と一緒に食べることでより一層おいしく感じたのかもしれない。

 陽子さんは出来上がった料理を一通り並べると
「どう?おいしそうでしょ、さあ、はやく食べてみて」
と僕を促すのだ。そして僕が一口口に入れると
「どう?おいしい?」
と、にっこりしたまま僕に聞いた。もちろん僕はいつも期待以上の味に思わず顔をほころばせるのだった。
 陽子さんはそんな僕を見て、まずは安心した様子。そしてその後彼女も一口食べ、少しのあいだだけ首をほんのちょっと傾けてから
「うん、うん」
と満足するのだった。
 その後はさっきも言った通り、何でもありの会話が続いた。陽子さんと過ごしていた時間の中で、僕は一度も退屈を感じたことは無いだろう。

 僕は思いもかけない陽子さんとの再会が僕の心を占めていたために、サンドイッチを買ってスーパーを出て少しのあいだ、飲み物を買っていないことに気づかなかった。そのことに気づかせたのは「おう、ヒトシじゃねえか」
 と、通りかかった酒屋から大声で呼びかけてきた吉岡悟郎だった。悟郎の低い声も昔と変わっていなかった。その声と、小学生の頃からいじくっていたギターで音楽の道を目指すのだと、一緒に高校に通っていた頃にはりきっていた彼も、結局今では親の仕事を継いでいるのだった。
「久しぶりじゃねえか。いつこっちに戻ってたんだ?」
 それほど大きくはない店の奥のレジから出て来た彼はそう僕に聞いた。
「いや、たった今だよ」
「仕事は?今日は平日だろ?」
「うん、ちょっと実家に用事ができたから、休みとっちゃったんだ」
「そうかあ、いいよなあ、簡単に休めるカイシャの人間はさ。俺なんか一生ここに縛り付けられてるんだぜ」
 悟郎はうらめしそうに店の中に目を向けた。
「まったく、『もう一つ店出すからお前も手伝え』だなんて勝手いいやがって。だいたい昔からうちの親は人の都合ってものを考えたことがないんだよな。おっと、わりいな、愚痴っちまって。そうだ、何か飲めよ」
 そう言って彼は僕を、五歩も歩けばついてしまうほどの店の奥のレジのそばにある缶のジュースやビールの売り場に手招きして、昔と同じく、にやりとして言った。
「何でもいいぜ」
 高校を卒業して、彼がプロを目指すんだと言って、地元の小さなライブハウスに時々出ていた頃、僕は大学の帰りによく、彼が日中手伝っていたこの店に立ち寄ってはいろいろな話をしたものだった。そのときには必ず今のように料金を払うことなく缶ジュースを一本くれたのだ。
「ギターは?まだ弾いてる?」
 悟郎は渋い表情で答えた。
「それが、せっかく新しいベースも決まりかけたのに、だめになっちゃってさ、それになかなか時間が作れなくてな。ここで手を抜くとやられちまうからさ」
「やられるって?」
「今じゃどこでもそこでも酒売ってるじゃないか。しかも安くさ。ついこの間も近くに安売りの酒屋ができちまって、まったく、困ったもんだぜ」
「自分の店っていうのも結構大変なんだな」
「ああ。みっともない話だけどよ、今ごろになって親がやってきた苦労がわかってきたよ」
そう言う悟郎の表情には、昔からの無鉄砲さに加えて、どことなく思慮深さがに じみ出ているように思えた。
「ほら、どれにする」
 と悟郎がケースの扉を開けて、再び僕に飲み物を進めてくれたので僕はウーロン茶を選んだ。悟郎はコーヒーを取ると、扉をパタンと閉めてからこう言った。
「ところでそっちの調子はどうなんだよ」
「うん、まあなんとかやってるよ」
 別に悪気があったわけではないけれども、悟郎に今の僕の悩みを打ちあける気にはならなかった。自分のことを話すよりも、悟郎の話を聞きたかった。
「そうか。やっぱり、何事も順調なのが一番・・・」
そのとき、店の外から大きなクラクションの音が彼の言葉をかき消した。
「またかよ」
 一口だけ飲んだ缶コーヒーをレジに置いた悟郎の後について店の入り口に行ってみると、隣のパチンコ屋の前に無造作に置かれた自転車でトラックが通ることができず、運転手はイライラしている様子だった。
 悟郎はすかさず飛び出していって、トラックの通行の邪魔になっている自転車を移動させて、やれやれ、といった顔で戻ってきた。
「まったく、クラクションなんかいくら鳴らしたってさ、中でのんきにパチンコやってるヤツラなんかに聞こえるわけねえのによ」
 なんだかんだ文句をつけつつも、やるべきことをすぐにやるところは昔と少しも変わっていなかった。
「この通りも相変わらずだね。昔のまんまだ」
 僕がそう言いながら、無事に通りを走り去っていくトラックの後ろ姿を見ていると悟郎が
「おい、あれ」
と言って通りの反対側を指さした。そこには買い物袋をさげた陽子さんがさっそうと歩いていた。
「『きたみ』の姉さんだ」
「うん」
 僕は悟郎が酒の配達で『きたみ』に、行ったことがあるということを思い出した。
「ヒトシ、確かあの姉さんに勉強教わってたんだっけ?」
「陽子さんのおかげかな、なんとか大学に入れたのも」
 僕はこれから僕にごちそうしてくれるために家へと戻る陽子さんを眺めながら答えた。
「あの姉さんも今かなり大変なんだぜ」
「大変?」
「ああ。この前『きたみ』に配達に行ったらさ、旦那と大声でもめてやがってさあ。酒のケースをどこに置いたらいいのか聞くすきも与えてくれないんだぜ」
「何をもめてたんだろう」

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