story10-2

手料理(続き)

 確か大学で知り合ったという陽子さんの結婚相手は、市役所の試験に受かった人だ。そうそう、ギター弾いてる人で、陽子さんとバンドやってたんだ。そういえば陽子さんの結婚が決まったころうちの母親が言ってたっけ。
「相手が公務員だなんて陽子さんも幸せよねえ。なんたって安定が一番だからねえ。それにひきかえ、うちなんかいつつぶれるかわかりゃしないよ」とかなんとか。
「それが、店のことなんだよ」
「店って『きたみ』のこと?」
「ああ。あのおやじさんがちょと前に倒れちゃってさ」
「病気かなにか?」
 陽子さんのお父さんはいつもにこにこしていた人で、道で会ったりすると「やあ、ヒトシくんお出かけかい?」などと声をかけてくれたものだ。「また陽子にへんな物食わされてるんじゃないの?」などと笑っていることもしばしばだった。
「あの店さ、結構いい材料仕入れてたけど、そのかわり人を雇えなかったみたいなんだよな。それで駅前のいい場所でやってたから家賃がきつかったらしくてさ、親父さんもかなり無理してたみたいだから、それで倒れちゃったらしいぜ」
「え、それと陽子さんがもめてたのと何が関係あるの?」
「結局、あの姉さんが店を手伝いたがってるのに旦那が反対してたってそれだけなんだけどさ。まあ、旦那にしてみりゃあ、あんなきれいな嫁さんが酒場で働くのが気に食わなかったんだろうな。でもあの陽子さんっていうのもなかなか度胸のある人だよな。旦那に向かってさ、『だいたいあんたみたいにつぶれる心配なんかする必要のないエライオヤクニンサマにはうちらみたいに必死に働いてる人達のことなんかこれっぽっちもわかってないのよ!』なんて言うんだぜ。俺、そのセリフ聞いたとき、思わず拍手しようと思ったぜ。あいつらむかつくからよ。あんなやつらが普段着でのうのうとしている役所なんて、たまにはつぶれりゃいいんだよな」
「おいおい、役所がなくなったら大変だよ」
「そうか、そうだな。なきゃ困るか。まあ、あれだな。あいつら、便所みてえなもんか」
 それにしてもそこまでひどい争いをしていたという話を聞かされると、さすがに心配になった。
「それで、その後どうなったの?」
 悟郎は苦笑しながら言った。
「出てっちゃったんだよ。旦那がだぜ。『勝手にしろ!』って言って。まったく情けないったらありゃしねえな」
「へえ。そんなことがあったんだ」
「ああ、一週間くらい前のことかな。それで男が出てっちゃってからようやく酒のケースの置き場所教えてもらってさ。そんとき、俺、何言っていいかわからなくてさ。そうしたら姉さんのほうから、待たせて悪かったって言ってきたんだよ。あんだけ旦那に怒鳴ったあとなのに、落ち着いててさ」
 悟郎は満足そうな顔をしていたがすぐに表情を曇らせた。
「でもよ、俺、悔しくてさ」
「何が?」
「だってさ、せっかくうちのバンドでベース弾いてくれる約束してたのに、ゴタゴタしてるからっていうんで断られちまったんだよ」
「そうだったんだ」
「ああ、旦那が出てった方を指さしてさ、『ごらんの通り、店も旦那もこのありさま。アイツも昔はギター持って、めちゃくちゃカッコよくて、二人でいい曲いっぱい作ろう、って言ってくれたのに、公務員になった途端、頭の中、おかしくなっちゃってさ。だから、今ベースどころじゃないのよ。本当にごめんね』、なんつってさあ。
ほんと、がっくりきたよ。あの兄さんもギターやってりゃよかったのによ。お役人にしとくにはもったいない腕もってたよ」
「へえ」
「うん。そういえば、前からそうだったけど、役人になってからもいつも仕事帰りにここに寄ってくれてさ、コーヒー飲んでってくれたよ。一本でもお得意さんだからね。あ、でもあのケンカ以来来てねえな」
 悟郎は渋い顔をしたまま続けた。
「そうそう、あの姉さんとは何回か練習したことあんだけどさ、ベースうまかったんだよ。でもそれだけじゃないんだよ。あの人が俺の曲にベースつけてくれるとさあ、もともと俺が考えた曲よりもずっとよくなるんだよな。なんかこう、びしっと引き締まるっていうのかなあ。そりゃそうだよね。あの姉さんのバンド、本当は今ごろプロになってるはずだったんだぜ」
「そうだったの?」
 陽子さんが前からバンド活動をしていたのは知っていたが、そこまでいっているとは思わなかった。曲を聞かせてもらったことはあった。普段テレビの音楽番組から流れてくるのと全く変わらない質の、それでいてより耳に残る曲なので驚いたのを覚えている。

「これ、陽子さんが作ったんですか?」
 僕がスピーカーを指さして聞くと彼女は
「うん、そうよ。できたてのほやほやよ。昨夜徹夜してやっと今朝できあがったのよ」
「徹夜したんですか?」
「うん、さすがに疲れたわ。一度やりだすと最後まで熱中しちゃうのよ」
「このテープ、どこかへ持っていってオーディションとか受けるんですか?」
「いずれはね。でも、まだまだよ。もっともっとがんばらなきゃ」
 そして真顔でこう答えたのはいまだにはっきりと覚えている。
「作る以上はいいかげんなものは作りたくないのよ。絶対に。だから、一度できあがっても、ぬかりがないかどうか、何度も何度も聞き返すのよ。そしたら朝になっちゃったの」
 悟郎が先を続けた。
「だからさ、悔しいんだよ。あの人が手伝ってくれればばっちりうまくいってたはずだと思うとさ。でも家があの状態じゃ、無理っていうもんだよな。俺だって時間つくれねえから、しばらくは無理かな」
「それで、陽子さんはどうしてプロになれなかったの?」
「あの姉さんのバンドは都心のライブハウスにいくつも出ててどこに行ってもファンが大勢ついててさ、確か、ええと、どこだったかな、忘れちゃったけどメジャーな会社の人間も見に来てたんだよ。でさ、陽子さんがコーラスうまいじゃん、だからそのレコード会社の人間としてはあの人をボーカルにさせようとしたらしいぜ。
でも陽子さんとしてはあくまでもベースをやりたかったわけでさ。だいたいそのレコード会社のやつはボーカルをクビにして陽子さんに歌わせようとしてたからさ、それで余計あの人も怒っちゃったみたいなんだよね」

 中年の男性客が一人店に入って来た。
「いらっしゃい」
 悟郎はそっけなく言うと、すでに買うものを決めている様子のその客の後について店の奥のレジに向かった。さっき悟郎に呼び止められてから今までに来た客は今の一人だけだった。悟郎の言葉通り、酒だけ売っている店にとっては厳しいのかもしれなかった。そういえば僕がさっきサンドイッチを買ったスーパーでも、缶ビールを高く積み上げて「ビール販売始めました」とでかでかと広告していたっけ。
 その中年の客は、買ったその場で早速缶ビールのふたを開け、一口飲んでから店を出て行った。
「どうせ隣のパチンコ屋に戻るんだよ。いつも来るんだよ。気楽なもんだよな。だいたいあのオヤジ、仕事して・・・」
 そのとき若い男があわてて入って来た。どうやらこの店のバイトらしかった。
「すみません、遅れました。店番かわります」
 悟郎は「おう」と彼に返事をしながら店の古ぼけた時計に目をやると、申し訳なさそうに言った。
「これから配達に出なきゃならねえんだ。わりいな、何だかさっきから俺ばっかり喋っちまってさ」
「いや、いいんだよ。久しぶりに悟郎の話聞けたし」
「今度、一杯やろうぜ」
「うん、また連絡するよ」
 悟郎はふざけてこう言った。
「そんなこと言って、なかなか連絡くれねえんじゃないだろうな?」
 もちろん僕は、自信をもって答えた。
「絶対にするよ。こっちにまたすぐに来れるかわからないけど、電話だけは必ずするから」
「ああ、頼むな。それじゃあ、またな」
 悟郎は笑顔でそう言うと店の奥に消えた。

 僕は飲まないままでいた缶ジュースを、サンドイッチの入ったスーパーの袋に入れ、歩いて一五分ほどの公園に足を向けた。
 その公園は、中央に芝生が広がり、そのまわりをところどころ木で作られたベンチのある舗装された遊歩道に囲まれていた。駅前のロータリーもなつかしかったが、僕は子供のころから気に入っていたこの公園に着いて初めて、『戻ってきた』という気がした。一番嬉しかったのは晴れていたことだ。単純かもしれない。が僕はそれだけで満足できたのだ。同じ青い空でも、会社の窓から眺めるのとでは全く別なもののように思えるのだった。
 僕は木々の陰に覆われたベンチを見つけるとそこに腰掛け、スーパーの袋からサンドイッチとジュースを取り出した。

芝生のあちらこちらには、母親に連れられた子供たち、バドミントンをするカップル、ゴムで自作の飛行機を勢いよく青空に向けて飛ばす年配の男性などがいた。
 子供たちは、家にあるおもちゃやゲームなどでは決して感じることのできない、自分の足で大地を駆けまわるという行為だけでもう夢中な様子だった。
僕はそんな子供たちを見ていると、なんだかうれしいような気分になったが、今はそれこそ一生懸命に遊んでいる彼らも、いずれは勉強だらけの毎日が続くことになるのかと思うと、ちょっとかわいそうにも思えた。勉強、勉強、中間テスト、勉強、勉強、期末テスト、勉強、勉強・・・。一体何だったのだろう。あれほど真剣に取り組む必要があったのか。あれほど注意深く、試験範囲について喋る教師の聞きたくもない話を、熱心にノートに書き写さなければならなかったのか。
 やがて彼らに訪れるはずの時期を思い、僕は自分がそんな時期をなんとか乗り切ったころのことを思い出した。

「学校はどう?」
と聞かれると僕は決まって、その日の授業でわからなかったことや、納得のいかないところなどを説明した。すると陽子さんは
「うーんと、要するにね」
と、首をほんのちょっと傾けてから、分かりやすく教えてくれるのだ。
「きっとヒトシくんはね、難しく考え過ぎだな。いい、困ったときはね、単純に考えればいいのよ。『何』が問題で、『どう』すればいいのかって。それだけよ。余計なことは考えちゃ駄目。邪魔なものはどけちゃうの」

 そのころは何とも思っていなかったが、もし陽子さんが隣に引っ越してこなければ、僕は毎日の授業の疑問を解決することも無かったし、そうだとしたら、僕は卒業までに何回もやってきたテストでまあまあ親に見せても恥ずかしくない点数をとることも、卒業して無事に進学することも、今の会社に就職することも決してできなかったはずなのだ。
 そのことを思うと僕は、自分が恵まれていることを実感せずにはいられなかった。

 たぶん、まだ陽子さんが単なる「料理が上手でやさしい隣のお姉さん」だとお思いの方もいるだろうが、僕にとって陽子さんはそんな、どこにでもいそうな「お姉さん」ではなかった。勉強だけではなく、もっともっと大事なことも教えてくれたのだ。
 陽子さんのおかげもあって、僕は悩みの種であった毎回のテストも徐々にではあるが平均点を大きく上回ることができた。でも、僕がそのことを誇りに思い、「ほら、陽子さん、今度もいい点とれたよ」
と、得意がって報告したりすると、陽子さんは決まってこう言ったものだ。
「いい、ヒトシ、こんなこといくらできたってひとつもいいことじゃないんだからね。ガッコウでいい点とるために生まれて来たわけじゃないでしょ!」
 いつのことだったか、自分の部屋に走っていって、すぐにアルバムを何枚か持って来てこう言ったこともあった。
「オベンキョウばかりしてるよりも、こういうのをいっぱい聞くことの方がよっぽど大事なのよ」
と言って、化粧をした男のイラストや、奇怪に歪んだ顔だけが大きく描かれたりするジャケットのアルバムを僕に手渡し、何曲かその場でかけてくれた。

 しばらく後になってそのアーティストの曲を好んで聞くようになったものの、そのときの僕にはさっぱり理解できなかった。歌謡曲でさえもちゃんと通して聞いた曲も無かったし、それまでにレコード一枚買ったことすらなかったのだ。
「年号とか公式とか、いくら覚えたってしょうがないんだから」
 そして僕の目をにらむように見ながら言った。
「いい、ヒトシ、勉強が人より少しくらいできたからって、ひとつも偉くないんだからね」
 それがほかの誰かから出た言葉であったら僕は特別、記憶していることはなかっただろう。陽子さんが言うからこそ、その言葉には説得力があったのだ。
 厳しい表情の陽子さん。それもまた僕にとっては十分に魅力的だった。
 僕が次々と流れる曲の感想をなかなか言えないでいると彼女は「音楽はね、理屈じゃないのよ。アーティストが必死になって作り上げた曲の、一音一音を大切に聞くのよ。ヒトシくんも、そのうちにわかってくるわ」
 陽子さんはこうも言っていた。
「別に音楽じゃなくたっていいのよ。自分はこれ!っていうもの、ヒトシくんにしか見つけられないものを捜し出してほしいのよ。つまらないじゃない、決まりきっ
た公式とか法則とか知識とかを覚えるだけなんていうのは。それとね、ヒトシくん、公式とか年号は、いざっていうときには何の役にも立たないのよ。ヒトシくんを助けてはくれないの。困ったときにどうするか、どう動くかを、今からいろんな経験をして体で覚える方が大事なのよ」

 僕のために料理を作ってくれている陽子さんの後ろ姿を見つめつつも、昔との違い、この部屋に入ってすぐに気づかなかった自分が愚かに思えるほどの明らかな違いに僕はようやく気づいた。ハルがいないのだ。いつも一緒に陽子さんのごちそうができあがるのを待っていた猫だ。
「陽子さん」
「なあに?」
「ハルは、もういないんですか」
陽子さんは手を休めてこっちを振り返り、ソファの僕の隣の、誰もいない、けれどもかつてはハルがちょこん、と座っていた場所を懐かしそうにじっと見つめてから言った。
「そうなの。ついこのあいだなのよ。クルマにひかれちゃったのよ」
「そうだったんですか」
 僕はなんだか、あまり話したことは無いけれど、妙に気の合う仲間を失ったような気がした。それはきっと、しばらくの間、こうして陽子さんの手料理を一緒に待っていたからだろう。
「まったく、悔しいったらないわ。だって、ハルをひいたクルマ、見逃しちゃったんだもの」
 そして陽子さんは、高めに振り上げた包丁を、思い切り振り下ろした。鈍い音がした。
でも実際のところ、ハルは僕と一緒に最初から料理ができあがるのを待っていたわけではなかった。たいていの場合は、いつも途中から参加してくるのだった。
 ハルはいつも、ほかのネコと喧嘩してやられて帰ってくるのだった。やられっぱなしのハルに陽子さんも困った様子だった。「いつかとっちめてやりなさい」ってきつくハルに言っていたっけ。

でも、一回だけ、たった一回だけ、違う日があった。いつも通り食事に呼ばれて陽子さんの家にあがると、その日はハルが最初からいて、いつもはある傷が無かった。おまけに陽子さんは妙にご機嫌だった。そして陽子さんはハルと目を合わせてにっこりしていたのを覚えている。でもその微笑はどことなくいたずらっぽい、というより邪悪めいたものが含まれていたような気がする。そしてその日以降、ハルの体にキズを見ることは無かった。そう、そのときだけは陽子さんの料理がいつもと違って、僕の舌を満足させなかったのだ。

 僕が陽子さんとのことで覚えているのはこのくらいだろうか。別に何か大きな出来事があったわけではない。でも、陽子さんとの時間は僕にとっては大切なものだ。

 そして今、再び大切な時間を過ごそうとしている。何物にもかえがたい瞬間だ。
 さすがに今回は、昔のように学校の話をするわけにはいかない。
「ヒトシくんは今、どんなお仕事してるの?」
「コンピュータ関係の仕事をしてます」
「あらそう、そんなことできるようになったんだあ。すごいのねえ」
「そんなことないですよ。陽子さん、言ってたじゃないですか。ちょっとくらい人よりできたからって、少しも偉くないって」
 陽子さんは料理する手をおいてこっちを振り向いて微笑むと 「うれしいわ、あたしの言ったこと、覚えていてくれたのね。今日のお料理は特別おいしいから楽しみにしてね。あともう少しでできあがりよ」

 さっきからあたりを漂っているいい匂いのおかげで空腹感が急激に増していた僕は、陽子さんの料理ができあがるのを、今か今かと待ち焦がれていた。が、やっぱり陽子さんの料理はハルと一緒に待っていたかったというのが正直なところだった。
 いつも僕の隣にちょこんと座っていたハル。僕がそっと背中をなでてやると、小さく「にゃあ」と鳴いていたっけ。ほかにも、僕が陽子さんと話しているとき、ちょっと間が空くとまるで会話に参加しているように「にゃあ」ときて、陽子さんが「そうよねえ。ハルもそう思うわよね」という具合だ。
 お給料をもらって生徒を教えている先生方とは違って、本当に大事だと思うことを教えてくれる陽子さんの言葉一つ一つを、僕とハルは一緒にうなずきながら聞いていた。
 そのハルが今はいない。陽子さんの話を聞いているのは僕一人なのだ。ハルがいないというだけでちょっとした違和感を感じてしまう。
 やがてテーブルに並べられた料理は、もちろんどれも文句のつけようのないものばかりだった。僕は、ここしばらくの間口にすることのできなかった陽子さんの心のこもった手料理に「これ、おいしいです」という言葉以外言えずに、ひたすら食べ続けた。
 陽子さんはそんな僕を見て笑いながらこう言った。
「すごい食欲ね。でもうれしいわ、ヒトシくん、すごくおいしそうに食べてくれるんだもの。なんだか昔に戻った気分ね」
「そうですね、陽子さんも昔のままで、その、きれいです」
「ありがとうね」
 陽子さんはそう言ってにっこりすると、ちょうど空になった僕のシチューの皿をさっと取ってキッチンへとおかわりをよそいに行ってくれた。妙に癖になる味付けの肉はまだ残っているのだろうかとちょっと心配しながらも、このおかげで野菜が食べられるようになったと言ってもいいほどの絶妙な味のドレッシングのかかったサラダをバリバリと食べているところへ陽子さんの「おまちどうさま」という言葉とともに待望の肉のたっぷり入ったシチューが戻って来た。

「ごちそうさま」
 陽子さんの料理を食べ終わった僕は、ただ幸福を感じていた。
 忘れていたのはこれだ、これなんだ、という思い。
 でも、寂しい思いもあるのが実際のところだ。製作発表の知らせを雑誌か何かで知ってから、数年もの間待ち続け、ようやく完成した映画を見に行ったときのような気分と言えばわかってもらえるだろうか。待ちに待った映画を夢中になって見ていると、あっというまに物語がクライマックスを迎えてしまったときの、「もっともっと、何時間でも、何日でも続いて欲しい」と本気で願ってしまったときのやるせなさ。
 確かにおいしい陽子さんの料理、でも今回はこれで終わり。それはどうしようもない。次はいつになるのか、と考えてしまったところで現実に引き戻される。そして、その『現実』という言葉が頭をよぎってしまったことによってせっかく今まで忘れていた、会社での悩みが勢いよく流れ出てきてしまい、表情に出てしまったようだ。
「ヒトシくん、それで、何か困ったことがあるのかな?」
 すっかり無防備になっていた僕は全てを話した。

「うん、うん」
 とうなずきながら陽子さんは食後のコーヒーをテーブルにそっと置いてから言った。
「きっと、これからもいろんなことがたくさんあると思うわ。私はヒトシくんみたいに大きな会社で働いたことは無いけれど、どこにいても、どんな仕事をしていても、人は幾つもの選択を迫られるのよね。場合によっては考える時間すら与えられないこともあるかもしれないわ。でもね、これだけは言えると思うの。たとえ決断した後にひどい状況になったとしても、それは失敗じゃないっていうこと。自分のとった行動について、まわり全員がおかしいって言っても、自分が下した決断である以上、間違ってなんかいないのよ。自分のとった行動が答えなのよ。
 いい?ヒトシくんは今までも、これからも、死ぬまでヒトシくん自身からしかこの世界を見ることができないの。つまりね、この人生っていう、プロローグが誕生で、エピローグが死っていう物語のなかではヒトシくんが主人公なのよ。もっと自信をもって。どうせならハッピーエンドにしたいでしょ?」
 しばらくのあいだ、僕は話し終えた陽子さんの目をじっと見て、今の言葉一つ一つを忘れないよう、心に刻み込んでいた。

「コーヒー、おかわりは?」
「いえ、もう、おなかいっぱいなので」
「そうよね、あれだけ食べてくれたんだものね」
陽子さんは笑顔で答えた。
「それじゃあ、そろそろ行きます。ごちそうさまでした」
「うん」
と言って陽子さんも立ち上がって、玄関の外まで一緒に出てきてくれた。
 陽子さんはまず空を見上げて
「あら、せっかくのまあるいお月さまに雲がかかっちゃってる」
と独り言のようにつぶやいてから
「結局いろいろと勝手なこと言っちゃって、ごめんなさいね」
「いえ、そんなこと」
「あえて言うとしたらね、『何』が問題で、『どう』すれば解決するのかっていうことだけよ。障害になってるものを取り除くだけ」
「あ」
「何?どうかした?」
「今の言葉、ずっと前にも言ってくれたから」
「そっか。じゃあ、実践するだけね。大丈夫よ」
陽子さんにそう言われると、今までの自分の中の重苦しい雰囲気が嘘のように吹き飛んでしまったように思えた。
 でも陽子さんは真剣そのものだった。僕はその鋭い眼差しに圧倒された。そして、陽子さんの言うとおりにすればそれで全てがうまくいくのだという確信さえ持てた。
しかし、昔にも同じ言葉をかけてくれたにもかかわらず、結局理解するどころか忘れてしまっていたじゃないかという思いにもとらわれた。ひょっとして僕はこの先もずっとものを教わるだけの存在でいるしかないのか、いや、そんなのは嫌だ。
「どうしたの?何かまだすっきりしない顔してるけど、味、変だった?ひょっとして、無理して食べてくれちゃったのかしら?」
「いえ、あの、陽子さんの力になれなくて」
「え?」
「昔から陽子さんにいろいろ教えてもらったのに、僕は何もしてあげられなくて・・・」
すると陽子さんは
「何言ってるの、ヒトシくんたら。今日は私の料理、あんなにいっぱい食べてくれたじゃないの。それだけでものすごく嬉しいのよ。だから、何も気にすることないわ」
 そう言って陽子さんは晴れやかな表情で僕の肩に手をかけてくれた。しなやかでいて、しかも説得するかのように、ずしりと肩にかけられた腕を陽子さんはすぐには離さなかった。
「お互い、これからもがんばりましょうね。今度こっちに来るときは、また寄っていってね。いつでもごちそうするからね」
「はい!」
「それじゃ」
と言って陽子さんは家に戻っていった。ドアを閉めるときにこっちを向いて、小さく手を振ってくれた。それは、年上の女性とは思えない、まるで小さい女の子のようなしぐさだった。

 自分の家に目を向けると、中は暗く、まだ両親は帰っていない様子だった。
 僕は腹ごなしの運動というわけではないけれど、とりあえず時間つぶしにあたりをぶらぶら歩いてみることにした。
 歩きながら僕が思い出していたのは、陽子さんの言葉の数々だった。ついさっき の言葉も、前に言われたことも、全てが大切だったし、全てを僕の一部とすることができれば、どんな障害でも乗り越えられるはずだ。
 足を止め、空を見上げると、まんまるい月がまわりに散らばった雲を照らしていた。
 そうか、さっきかかっていた目障りな雲を自分で蹴散らしたんだな。そんな黄色くて丸いお月さまが僕に向かって、何事もうまくいくよ、と笑顔で言っているような気さえした。
 僕には、明日からの自分が、今までとは違ったものになるという確信があった。



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