ケータイが鳴った。
半分うとうとしていた私は「はいはいはい」と言いながら、かばんからごそごそとケータイを取り出すと、とびっきりの元気な声で
「よっ、キョーコ、どうした?」と答えた。
すぐそばに立っているしょぼくれた顔のサラリーマンはそんな私を見てしかめっ面だ。それでも私はおかまいなしに話す。だってキョーコからの電話だもん。
私は窓の外を見ながら考えた。ええと、今電車がこのあたりを走っているっていうことは、キョーコの高校は確かあの子の家のすぐ近くだったから、まだ寝てられる時間のはずなんだけどなあ。
するとキョーコは、いつもの、女の私でさえもかわいいと思える声で「あのね、あのね」と話し出した。
「怖い夢見て起きちゃったの」
「怖い夢見て起きただあ?」
大声で聞き返す私を見るまわりの乗客たちの顔はどれもこれもあきれている。そりゃ確かにわざわざ電話するような話じゃない。けど、キョーコは別なんだよね。
「それで?追っかけられる夢だあ?最後は崖から落っこった?いやあ、大変だったねえ。あ、そういえばさあ、あれどうなった?ほら、バイト先の喫茶店でキョーコが一目ぼれしたっていう客よ。また来た?うん、うん、本当に来たんだ。それで?うん、うん」
しかめっ面のサラリーマンをちらっと見ると、好奇心丸出しのばか顔だ。
「あ、キョーコさあ、そろそろ家出ないとヤバいんじゃん?こっちももう駅着いちゃうし。うん、そうだね、また聞かせてね、うん、じゃあね」
電車から降りるとすかさず陰気な声が後ろから聞こえてきた。
「おはよう」
担任だ。
「今朝もまたお友達とおしゃべり?あんなに混んでる電車で」
「すいませーん」
「まったく」
あきれてるおばさんは急ぎ足で学校に向かった。ゆっくり歩いたってすぐ着くのに。
くそ、朝からあんなおばさんの顔なんか見たくなかったよ。あーあ、憂鬱。学校なんか全然面白くない。何で毎日行かなきゃならないのかわかんないよ。あーやだやだ。
教室に入るとクラスの連中は下らない話ばっかり。メイクでも服でも、全然いいとは思えないのを流行の最先端だと勘違いしてんだもん。ばっかみたい。ありがたいことに私には誰も話しかけてこないけどね。そっけない返事しかしないから。ばかと話すとばかがうつるだけ。
授業の時間はすぐに始まって異常に長い。なんでだろう。あんまり長いんで寝ちゃったよ。
「早瀬、起きろ」
後ろから頭をこづかれて目を覚ましたときに長い長い授業がやっと終わった。でもその数学のハゲおやじはこうも言った。
「後で職員室に来るんだ」
言っとくけど私はばかじゃないよ。ばかは先生たちと私以外の生徒。私は宿題も試験もどうってことないもん。それが先生連中を余計にイライラさせるみたい。ろくにノートもとらないでいいかげんやってる私がいい点とっちゃうもんだからさ。一番こたえるのは退屈することかな。
キョーコと一緒だった中学んときはそんなことこれっぽっちも思わなかったのになあ。
「お前はどうしてやろうとしないんだ?」
「いや、別に・・・」
あんたの授業がクソつまらないからって言うともっと長くなりそうだから我慢してる私。どうせまた『やる気』がどうとかいうくーだらない話だ。まわりの先生連中も、また始まったか、みたいな顔してるよ。
「お前の学力なら国立だって行けるんだぞ」
ほら来た!何かって言うと国立、国立って顔ひきつらせちゃってさ。顔面神経痛か、あんたは。そんなに行きたきゃあんたが行けばいいじゃん。どうせ、自分の教え子が国立入ったらエバれるからなんだよね。ばっかみたい。国立だからってなんなのよ、国の学校ってだけじゃない。だいたい国がなんなのよ、今のこの国はどうしようもないじゃん。
ほんのちょっぴりしか無い髪の毛にときどき手をやりながら、じじいは延々と説教をたれる。
「じゃあ、がんばります」
「じゃあってなんなんだよ、じゃあじゃないだろうじゃあじゃ!もういいや、今日は帰ってよし」
ジャージャジャージャって、うるさいなハゲ。
ま、いいや。帰っていいって言うんだから帰ろ。
電車に乗り、窓の外の夕暮れどきの空を眺めながら私は思った。自分の進路なんかどうでもいい。私が気にかけてるのはそんなことじゃなくてキョーコのことだ。いまごろキョーコはバイトがんばってるかな?そうそう、お目当ての客は来たのかな?どんな顔した人だろう?あれ、そういえばあの子、ずっと前に好きな人なんかいないって言ってたことがあったような。だとすると、もしかしてこれは初恋ってやつかな?
私はそういったことだけを思い浮かべていようとしたけど、どうしても別の、全く違うことを頭から追い払うこともできずに、キョーコの家に向かっていた。
翌朝、またも電車でうとうとしていた私の目を覚ましたのはキョーコからの電話だった。あたりまえか、お互い他にかける相手なんかいるはずないから。確かにケータイ
は便利だろうけど、人間は不便な奴ばかり。
私は「はいはいはい」と言いながらかばんからごそごそとケータイを取り出す。
「よっ!キョーコ、おはよう」
いきなり威勢よくしゃべり出す私のすぐそばで、いつものサラリーマンがびくっとしてやがる。
いつも通りの他愛のない話が続いていたけど「お兄ちゃんからケータイにかかってきたの。もうすぐ迎えに来てくれるって」という言葉を聞いたとき、電話を切ってしまいたい衝動に駆られてしまった。
キョーコに初めて会ったのは中一の夏だった。彼女は転校生だった。中学なんか小学校に輪をかけてばかばっかりしかいなくてうんざりしていたところへキョーコは現れてくれた。
なんだろう?変な意味じゃなくて、私は一発で彼女を気に入った。彼女なら友達になれる、とそのとき確信したのを覚えている。
ちょっと西洋の外人っぽい顔つきをしていて、頭もよくて、おとなしい女の子。体が弱くてちょっと学校休みがち。だからすぐにクラスの連中にいじめられるはめになった。私みたいにばかには「ばか」って言ってやることさえできないおしとやかな女の子なんだな。結局彼女が話すようになったのも、遊びに呼んでくれたのも私だけ。
キョーコの部屋は殺風景な私のそれとは比べものにならないほど『女の子』の部屋だった。ぬいぐるみなんかベッドに置いちゃったりして。私はそんな彼女の部屋に感心しながらも、意地悪してくるクラスの連中なんかかまうなって言ったんだ。なんかあったら絶対私に報告しろってね。やる気の全然無い担任なんかに言ったって無駄だとも言っておいたよ。あのときキョーコったら「ありがとう」って泣いて喜んじゃってさ。ありゃあ、たぶん前の学校でもいじめられてたんだなあと思ったよ。
吹けば飛ぶような華奢なキョーコの体を抱き締めて「大丈夫だよ」なんて言ってあげたんだ。
そのとき、私は気づいたんだ。まるで二人の会話を全部聞いていたような、二人を見守ってくれているような優しい顔に。それは、キョーコの勉強机に立てられた男の子の写真。
「あれ、キョーコ、あんなカッコイイ彼氏いるんじゃん」
キョーコは涙で濡れた顔を上げると、小さく「お兄ちゃんだよ」って答えた。
ちょうどお菓子と紅茶をもって来てくれていたキョーコのお母さんがドアのところに突っ立っていた。そして私にこうつぶやいた。
「死んだの。四年前に」
「ごめんなさい、知らなくて・・・」
キョーコのお母さんはお菓子と紅茶をそっとテーブルに置くと、部屋を出て行った。
その悲しげな様子とは対照的に、キョーコはむしろ笑顔を見せて言った。
「カッコイイでしょ、お兄ちゃん」
亡くなったキョーコのお兄さんと同じ病気にキョーコもかかっていて、本人に知らせてはいないけどあまり長くはもたないということを聞いたのはその日の夕方だった。
私はピアノのお稽古があるキョーコと一緒に家を出たけど、ちょうどキョーコと別れたときに腕時計を忘れたことに気づいて家に戻った。キョーコのお母さんはすぐに部屋から持ってきてくれたけど、手渡すときはひどくゆっくりだった。「ありがとうね、あの子と遊んでくれて」って言いながら。
「あの子、死んだリュウイチと仲よかったから。それで、学校でいじめられても、いつか、リュウイチが助けに来てくれるだなんて、ばかなこと言っていて・・・。私も、どうすることもできなくて・・・」
「おばさん、私がついてますから」
「ありがとうねえ、あなたみたいなお友達がいてくれて、本当によかったわ」
そう言っておばさんは、うちの親とは大違いの上品な顔をくしゃくしゃにして涙ぐんでいた。うちの親も確かに、まあまあな顔してるけど、なんて言うか、イヤらしい整い方してるんだよね。そんなんに似てるもんだから、キレイって言われてもあんまりうれしくないよ。
まあ、そんなこといいか。とにかくそれから私はちょくちょくキョーコの家にお邪魔することになった。おばさんを安心させるために、ときどきはキョーコのいないときにも。
さすがに高校は別になってしまったので、学校での様子までは私にはわからなかった。だからせめて、簡単に連絡がつくようにケータイを一緒に買って、いつかかってきても私はキョーコを元気づけるように威勢よくでることにしてきたんだ。
まさか、そんな。死んだ人からの電話なんて。
ちょっとやそっとのことでは乱されることのない私を見事に打ち砕いてくれたのは、そのときに思い出された、キョーコの部屋に飾ってあったリュウイチさんの写真。
「飾ってある」なんてもんじゃない。「見守ってくれている」だけでもない。あの眼差しはどう見ても「呼んでいる」のよ。キョーコもお兄さんの事話すとき、死んだ人というよりも、ただ遠くに離れた相手の事を話しているみたいだった。ちょっとがんばれば会いに行けるような距離・・・。
私は暗示にかかったキョーコが何かバカなことをしでかさないか心配だった。でも私は自分のことも考えなければならなくなってしまったんだ。そのあとキョーコがこんなことを言ったから。
「そうそう、お兄ちゃん、言ってたよ。あなたも来ればって。あなたのパパも向こうで待ってるって」
パパ。
私は小学校低学年のころまで、病弱で病院のベッドにいることがほとんどで、本当に丈夫な体になって、病院を出られる日がくるのか疑問に思う悲観的な子供だった。そんな私にパパは「外は素晴らしいよ」って言い続けた。「早く元気になるんだぞ、治ったらどこに行こうか?」って毎日のように言ってたっけ。でも、いざ治療が終わって、がんばって体力つけて学校にも行けるようになった途端、パパ、死んじゃった。酒酔い運転に巻き込まれた事故で。どんなときだって励ましてくれて、持って来てくれたたくさんの雑誌とか本で、治ったら行くところをいくつも決めていたのに。
そんなことを思い出してしまったから、キョーコとの会話をどう続けたらいいかわからなくなっちゃったけど、そうこうしているうちにキョーコの方から「あっ、もう行かなくちゃ」って言ってきて、そのときの会話は終わったんだ。
その日はもやもやした頭のまんまで、下らない授業が続いて、私はさっきのキョーコとの会話を何度も何度も思い出していた。
お兄さんから電話がかかってくるなんてことありえないのに。でも、そもそも私以外からあの子のケータイに電話がいくはずないんだよね。お互い、別の人間には番号教えてないから。間違い電話だよ、きっと。でも・・・。
あの写真のリュウイチさんの目を思い出すと、ひょっとして、なんて考えてしまう。
そんなことばかり考えていたら、いつもは長ったらしく感じる授業もあっと言う間に終わろうとしていた。とりあえずすぐにでもキョーコの家に行ってあの子の話を直接聞こう。まだ帰ってないかもしれないけど、キョーコのお母さんにも話しておいた方がいいし。
「じゃあ、今日はここまでにします」
ラストのおばさん担任の授業が終わって、あとはどうでもいい連絡聞いてすぐに学校飛び出そうとしていたら、おばさんは妙なしかめっ面をしている。クラスのばか連中はいつまでたってもばか話に夢中だ。おばさんはみんなが黙るまで待つっていう手だ。
しばらくしてさすがのばかどもも、何かいつもと違うことに気がついてだんだんと教室が静かになっていった。
「昨夜」と、もったいぶって話し出すおばさん。
「うちの生徒が」
一度にしゃべれっていうんだよ、まどろっこしい。
「駅前のスーパーで、万引きをしました」
それを聞いたばか連中が「えー」とか「うそー」、「まじー」の大合唱。
おばさん、今度はそんな邪魔は無視して話し始める。連中は詳しいことを知りたいから、聞き逃すまいと声をひそめた。
ふん、こいつらもそれくらいの頭はあるんだ。
みんなが聞きたいのは「誰がやったのか」なのに、おばさんが呪文のように話し続けているのは「やってよいこと悪いことの区別」だとか「社会のルール」なんていうつまらないことばっか。
そんな小学校の道徳みたいなこと言われたってさ。
あきれた顔して首を横に振ってたら、おばさんは強い口調でこの私に言ってきた。
「じゃあ早瀬さん、あなたはこういうことが起きないようにするには、各自がどのような自覚をもてばよいと思うのかしら?」
私はその問いにも首を横に振った。ゆっくりね。そして言った。
「なんにもしなくていい」
「え?」
「だからあ、なんにもしなくていいって言ったんです」
「何ですって?」
おばさんは顔を真っ赤にしてる。まわりのばか連中は、もっとやれといったやじ馬根性丸だしの雰囲気。別にあんたらを喜ばせたくて言ってんじゃねえよ、ばかっ。
「今回の出来事について各自レポートを明日までに提出するように」
私を睨みつけたままおばさんは言い放った。突然の宿題にさっきまで騒いでいたやつらは不満たらたら。
「早瀬、あなたは書かなくていいわ。そのかわり後で職員室に来なさい」
「ざまあ」、「余計なこと言うから」なんて言ってるのがまわりで聞こえる。
そんなクソ連中のつまった教室を私は出た。そしたら今度は「出てっちゃったよ」
「やるじゃん」とかいう声。廊下から教室を振り返ってみると、おばさんは固まったまんまだ。地蔵か、あんたは。
階段を降りながら私はキョーコにケータイをかけたけど話し中。話し中?誰と?まさか、かかって来た?
いや、私はそんな考えをふり払った。そしてキョーコの家にかけてみた。キョーコはバイトだから、一応これからお邪魔することを連絡しておいた方がいいと考えたからだ。でもお母さんはどこかに出掛けているようだった。買い物にでも行ってんのかな。
しょうがない、私はおばさんのおっしゃる通り職員室に寄ってくことにした。
「何が不満なの?いつもいつも」
全てです。特にあんたのいかにもおばさんですっていう顔。私は絶対、あんたみたいなおばさん顔にはなりたくありません、なんて言ったら長くなりそうだ。
「不満、ってさっきのことですか?」
「そうよ。あんなやる気の無い答え方して。うちの学校から万引きが出たなんて、大変なことじゃない」
「万引きなんてもっと大勢やってんじゃないんですか?店で捕まっても学校に知らされてないだけですよ、ほとんどは。親が学校には言わないでくれって謝って、何倍か金払って終わりって具合よ。万引きでガタガタしてるんですか?体売ったり、クスリとかいろいろあるんじゃないんですか?」
おばさんの顔がまた赤くなってきた。なんかの実験みたい。
「だいたいあなたは、どうしてもっと素直になれないの?いつもいつもひねくれたことばかり言って。私はね、あなたがた一人一人にしっかりとした意識をもって世の中に出て欲しくて・・・」
あー、もうたまらんわ。この人いったいいつまで話し続けるんだろう。
「聞いてるの?私はね、これからの社会で・」
『これから』だあ?もうすぐ、いつか、近いうちにいなくなってしまうキョーコのことを思うと、私は叫ばずにはいられなかった。
「聞いてるわよ!さっきから聞いてるわよ!社会だ、世の中だなんて、ろくなもんじゃないじゃない!こんな薄汚れた世界の、なーにが社会よ世の中よ!だいだい人が、寿命がくるんじゃなくって、下らない事故とか、殺されたりして一生を台なしにする世界の何が社会だってえのよ!警察とか作らなきゃならない世界の何が文明社会よ、本当の文明人だったらそんなの、銃とか、軍隊とか、そういうの全部、必要あるわけないじゃないよ!それに、自殺!自分で自分を終わらせる人間が車にはねられる人間よりずっと多いなんて、どうかしてるよ!!!」
静まり返った職員室に電話が鳴った。その音に思わず我に返ったおばさんは私の言葉に対する反論をやっと思いついたようで、なにやら話し出そうとしたけど、かかってきた電話をとった先生がおばさんを止めた。
「早瀬に電話なんですが」
「え?」
「だから私に電話だって言ってるじゃないですか」
私は横から割り込んで「貸して下さい」と言って受話器を引っつかんだ。
「もしもし」
電話はキョーコのお母さんからだった。
キョーコの自殺の知らせ。どこからか手に入れた薬を飲んで。でも、死に顔は笑顔。
ケータイを握ったまま。
職員室を飛び出してまっすぐ家に帰った私はベッドにうずくまったままだった。頭にあったのはキョーコのお母さんの、さっきの泣きながらかけてくれた電話だった。
小さなことでも、どんなことでもすぐに相談してくれたのに、キョーコったらどうして・・・。
毎日大勢の人間がそれこそいろんな理由で死んでいく世の中。そのたびに死んだ人間のまわりにはこうしてその事実を認めたくない人間。どうすることもできなくて、ベッドでうずくまっている人間。でもキョーコの場合は特別、彼女は特別。そう思いたい。私にとって唯一の存在だったから。キョーコの、やわらかい日差しのような、あの笑顔。
私は彼女と話したときのことを思い出せる限り、心の中で蘇らせていた。思い出しているのか、それとも夢なのか。そのあいだ、何回となく、私のケータイが鳴っていたような気がした。でも私はキョーコの顔を見、そのかわいらしい声を聞いていたかった。そしてそのまま深い眠りに落ちていった。
どしゃぶりの朝。
地球が終わる日まで続くんじゃないかと思ってしまう降り方。まるで今までの晴れの日が、この汚れきった世の中でキョーコがいてくれたから、かろうじてもっていたような気さえする。
かばんの中も確かめずに部屋を出る。入っているのは、もう持っていても意味のない電源を切ったケータイと、ちゃんと開いたことのほとんどない教科書。
家でうだうだしていてもしょうがない。学校さぼって家にいたところで、またいつかみたいにパパのことを忘れた女がろくでもない男を家に連れ込む邪魔になってまたガタガタするだけだ。そんなんなるより、とりあえず外に出るか。
どこか、学校以外で時間をつぶせるところは、と考えをめぐらしてみたけど、図書館、喫茶店、公園のベンチ、そのほかのどこでも思いついたところは全部、キョーコといろんな話をした思い出の場所だ。なんだか、つらい。
いやだ、何も考えたくない。思考を一切停止してしまいたい。そうすればキョーコを失ったことを思い出さずにすむから。でもそんなこと、できるはずない。私は豚どもでいっぱいの電車に乗った。
濡れたままの傘がうっとうしい雨の朝の車内。
いつもは窓から外を見ながらうとうとしてしまうところだけど、今日は窓際まで行く気もなく、ただただ揺られながら下をじっと見ている私。
今日はこのまま学校に向かおう。意味のない、下らない授業で時間をつぶそう。どんなにつまらなくてもいい。少しは気を紛らわすことができるだろうから。
今の、どこにも持っていきようのない気持ちを落ち着かせることができるかもしれ ないから。
そう考え、ほんの少しだけど気が楽になった私は顔をあげた。
ずうっと沈んだ気分だったから、今電車がどのあたりを走っているのかわからなかった。窓の外を見ると、あれだけ降っていた雨がやみ、雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせているのが見えた。やわらかい日差し。
天気がよくなって気分も晴れる、なんて単純かもしれないけど、少なくとも今の私はそういう状態だ。
車掌のアナウンスがもうすぐ駅に着くことを告げ、私がホーム側のドアに寄ろうとしたそのとき、かばんの中のケータイが鳴った。