story6

おばあちゃん

「そう言えば今日はあいつ、来てないな」
 つまり彼は、大学を出て一、二年おきに集まって飲む友人達でさえも、飲み始めて一時間以上たたないと思い出されないほど存在感の無い男だったのだ。
 彼のことを口にした隣の奴がコップに半分ほど残ったビールを飲み下してから言った。
「ええと、何ていう名前だったけ。ど忘れしちゃったよ」
「おいおい、仲間じゃないか。石山だろ」
私は苦笑いしながら答えた。
「ああ、そうか。思い出した」
 誰からともなく連絡が来て今日に決まったこの飲み会。いつもは下らない笑い話や学生時代のことが話題になるのだが、今回はいつもその場にいるだけで、あまり喋らなかった石山の話題が中心となった。
 さっきから食べてばかりの奴が言った。
「それがさあ、俺はちゃんと今回のことを伝えて、奴も来るとは言ってたんだけど、何て言うか、ひどくぼうっとした声だったんだよ」
「ああ、たぶんあれじゃないかな」
別の一人が身を乗り出して言った。
「まあ、この仲間だから言っちゃってもあいつは怒らないと思うけどさあ、実は半年前にあいつの彼女、死んじゃったんだよなあ」
「本当か」
「そうなのか」
みんな口々に聞いた。彼の話は続いた。
「俺があいつにばったり会ったのはその直後だったんだ。あいつ、会えて良かったって言ってたよ。とにかく話相手が欲しいって。自分なら昔からの仲だし、迷惑かもしれないけれど、おごるからその辺でちょっと飲もうって」
 彼によると、そのしばらく前に、石山の言う『この宇宙に二人といない女性』に巡り会ったという。二人はしばらくつきあったが、突然の事故で彼女は死んでしまった。いや、事故というよりは自殺だったらしい。見通しのよい直線道路を走っていた彼女の車が突然、反対車線に飛び込んだのだ。丁度大型トラックとすれ違うときに。事故の知らせを聞いて彼がまずしたことは、その直前に相談を受けたという彼女の友人に会いに行くことだった。一体彼女に何が起こったのかを知るために。
 その友人はすっかりとり乱していたらしい。
「まったく馬鹿な女だよ。全部喋っちまったんだからな。「あたし、結局何もしてあげられなかった」って泣きながら」
 全員、酒がかなり入っていたにもかかわらず、彼の話に聞き入っていた。
「石山の彼女、いきさつは知らないけれど、別の男とどこかで知りあって、気持ちがすっかり変わったらしいんだ」
 そして石山に打ち明けられないまま時間が経ってしまったが、その男と深い仲になり、余計石山に会いづらくなっていった。しかし、彼女が一生をつくす決心をしたのに、その男は彼女を単なる遊びとしか見ていなかった。うまい言葉や嘘を並べるだけ。
「でも、どうしてふられた位で死ぬことがある?」
 ようやく、新たにビールを飲み始めた奴が言った。
「それは石山も言ってたけど、彼女はあまりにも弱すぎるんだって。そんな彼女を精一杯愛してきたんだって。初めて、とことん夢中になれて、尊敬は出来たし、間違いはお互い厳しくできる存在だったのにって。でも一人でいると、どうしていいのかわからなくなって、仕事も辞めたし、自分もよほど弱い男だって言っていたな」
「それでお前、何て言ってやったんだ」
 私はたずねた。
「ああ、そりゃ落ち込むのは当然だよって言ってやったんだ。しばらくそうなるのは仕方無いよってね。今度気晴らしに二人で車でどこかへ行ってみようかって言ったのに奴はぼそっと「ありがとう、でも・・・」って言うだけ。それでまた彼女の話を始めるんだ。彼女に会うまで子供のときからあいつ家、目茶苦茶だったろう」
「ああ、知ってる」別の一人が答えた。
「あいつ毎日毎日ひどい夫婦喧嘩聞かされて育ったんだろ。そのうち父親は近所のカミさんとつきあい始めたけど、それがばれて相手の旦那に刺されて植物人間。母親は薬に手を出して施設入り。これじゃ誰だって嫌になるよ」
「あいつ、こう言ってたよ。彼女が彼の前に現れて、自分が確実に変わってきたって。
この先自分がやるべきこと、進むべき道が少しずつ見えてきたって。そうそう、こんなことも言ってたな。それまでは、駅のホームで列車を待っているときはいつも、心が体から離れてそのあたりを漂っているような感じがしてきて、列車が近づくとまた体がおさまるって。それで列車が目の前に来る寸前、ああ、今、自分の体を二 歩か三歩前に動かせば全てが終わるんだって考えていたけれど、彼女に会ってからはそんなこと考えなくなったって」話し終わったものの、しばらくはみんな黙ったままだった。
「心配だよな、あいつ・・・」誰かが言った。
「男を探し出してもどうなるわけでもないし」
「ちょっと待てよ。あいつ、仕事辞めたっていうけど今は何をやっているんだろう」
 答えは誰からも出なかった。
「近いうちにまた集まって何かしてやれることを考えてみようよ。どうだろう?」
「そうだな」
そうしてその夜の集まりは、何となく、という形容がふさわしいと思える終わり方をした。
 その後、そのうちの一人から電話があったが、石山とは連絡がつかないと言っていた。 何日間か、私もぼうっとする時間が増えているのに気づいた。ちょっとした時間、例えば仕事のあいまとか買い物に出て服などを選ぶとき。つい彼のことを考えてしまうのは他の仲間も同じだろう。
 ある晴れた日曜日、私は退屈しのぎの散歩に出かけた。青空が広がっているのに気分はしっくりこない。彼とすれ違ったのは、そう考えていたときだ。いや、正確に言うと彼一人ではなく、女性も一緒だった。小さな小さなか弱い女性。しかし、今までに楽しみ、悲しみなどおよそ全ての感情を十分に体験してきたであろうことは、その顔に刻まれた深いしわと、少々おぼつかないながらも、まだちょこちょこ動く足から知ることができた。
 最初私はその老婆に気をとられていたので、横で「おばあちゃん、いい天気だね」
とか、「こっちに曲がるよ、気をつけてね、おばあちゃん」などと言いながら注意 深くつきそっているのが石山だとは気づかなかった。
 そして思いがけないことに、石山の方から声をかけて-しかも元気そうに-きたのだ。
「やあ、小野田じゃないか」
「ああ、石山か。久しぶりだなあ」
とっさにそう答えたものの、私は内心かなり驚いていた。
「もし時間があるんだったらその公園のベンチにでも座らないか。おばあちゃんを休ませなきゃならないから」
 私は言われるままにした。こんなことでも彼は以前と違って見えるのだ。決して大げさに言っているのではないことをわかって欲しい。

「あのことがあって以来、確かにどん底の気分が続いたよ。人も信じられなくなっちゃったし」
 しかし、そういう彼は、空に浮かぶ白い雲が風でゆっくりと動いていくのを笑顔で見つめていた。
「だましたり、おどかしたり、必死になって金ためたり、木を切って海を汚して・・・。嫌になった。人のすることが。まあ、それは単なる口実かな。本当は大人になって社会に出るのが恐いだけ、面倒くさいだけかもしれないな」
「でも今は・・・」
「うん」
 彼は赤くなりはじめた空の雲から、私の反対側にちょこんと座った老婆に目を向けて言った。
「今、この近所の老人ホームに勤めているんだ。給料は安いけど、別にそんなことはかまわない。将来何かしようってわけじゃないし。こういう人達の世話ができて満足してるんだから。そりゃ、嫌なことも少しはあるけれど、話相手になったり、こうして散歩に連れていってあげるだけで喜んでもらえるんだから、これ以上のことはないよ。あ、ごめん、もうこんな時間だ。おばあちゃんの食事の時間なんだ。帰らなくちゃならないけど、もし良かったら今度老人ホームに来てくれよ。仕事場を見せたいから。場所が場所だからのんびりできるよ」
そう言って彼は小さく笑ってみせた。素直な、何の含みも無い笑顔だった。
「じゃあ、行こうか、おばあちゃん」
「行ってきます・・・」
「違うよ、おばあちゃん。『行ってきます』は出かけるときに使う言葉だよ」
 それでも、
「行ってきます・・・」
 彼は笑いながら言った。
「やっぱり仕方ないのかな、こうなっちゃうのは。同じ事を教えてもすぐに忘れちゃうんだよ」
 実にいろいろなことを教えなければならないらしい。
「大変だな」
「うん、でも昔からやってたことは忘れないらしいんだ。意外かもしれないけれど、おばあちゃん、将棋がものすごく強いんだ。うちのホームで一番の職員を負かしたくらいなんだ。もっとも僕はあまりわからないんだけれど。だから今、教わっているんだよ。今日も夕食の後、ひまになったらやるんだ。面白いよ、けっこう。あっ、ごめん、本当にもう行かなくちゃ」
「とにかく、元気にしていて何よりだったよ」
 私は、他の仲間も今回のことを話せば安心するだろう、近いうちにみんなを集めるから一杯やろうと言ったが、彼はすまなそうに首を横に振るだけだった。彼にはもう外に出て行く気など無いのだった。おばあちゃんに何度も何度も言葉やテレビのリモコンなんかの使い方を教えることが彼の存在する意味なのだ。だから彼は今、生き生きとして見えるのだった。

 しばらくしてから私は、好奇心にかられて彼の働く老人ホームを訪ねることにした。いや、単なる好奇心だろうか、どうしても見に行きたいというわけではないのに、とにかく行かなくては、という気になり私はその門をくぐった。
 それほど大きな建物ではないが、感じはよかった。外からロビーが見えた。一面ガラスなので、中で椅子に座ってテレビを見ている人達がよく見えたが、この前のおばあちゃんがいなかった。私は入り口にまわり、入ろうとすると、後ろから一緒に入ってきた若い女性の職員に声をかけられた。
「面会ですか?」
 私は、はい、と答えた。
「どなたでしょうか」
「ええと、すみません、私はこちらの職員の友人なのですが・・・」
 彼女はにっこりすると、こう言った。
「あら、そうでしたか。その方のお名前は?」
私が名を告げると、彼女の顔の『にっこり』が消えて、かわりに戸惑いの表情があらわれはじめた。
「何かあったのですか」
「はい、実は・・・」
 彼は、私と会ったあの日の何日か後、彼があれほど情熱を注いでいたこの仕事を辞めたのだ。理由は誰にでも想像がつくだろう。おばあちゃんが死んでしまったのだ。私には彼がどんなに落胆しているかがわかるような気がしたので、彼の住所を聞いておいたものの、訪れる気は無かった。第一、何と言えばいいのか、まったく見当がつかない。一体この自分に何が出来るのか。どんな言葉をもってしても、彼を救うことが出来ないのはわかっていたから私は、彼を訪れまいと決めた。

しかし、一カ月くらいたったある日、私は彼の住む小さなアパートを通りの反対側から見つめている自分を発見した。そして、心の準備が出来ないまま、私は彼の部屋の前まで来てしまった。すでに私の右手はノックをしていた。
「・・・どうぞ」
 彼の声が聞こえた。それは、彼が、彼なりの喜びを見つけ、はつらつとして見えたときの声ではなかった。ただ、ぼそっとした声。私がドアを開けると、彼がひっそりと小さな四角いテーブルのそばに座っているのが見えた。
「心配になって来てみたんだけど」
 彼は片手をそうっとあげると、彼の右側に座れと合図した。
「おじゃまします」
 私はそうつぶやき、靴を脱いだ。
 私が何を話しかけても返ってくるのは、「ああ」とか「うん」などのぼそっとした声だけで、その後は沈黙が続いた。アパートに入る前、私はそばの広場で子供たが野球か何かをして遊んでいる声を聞いたと思ったのだが、彼の部屋に入った今、何も-車の音でさえも-聞こえないことに気がついた。
 私は思い切って聞いてみた。
「今、何か仕事はしてる?」
 しばらくしてから、
「いいや」
 何も無い空間を見つめている。
 一体彼はどのようにして生活をしているのだろう。一日中、ぼうっとしているように見える。動く気配すら無い。しかし部屋にはほこり一つ無いし、いいかげんな様子は見えないのだ。
私は気まずいものを感じたので、そろそろ行かなくてはならないから、と言おうとしてテーブルに手をおいた。
 私は思わず息を飲んだ。
今まで何も無かったはずのテーブルの上に、将棋盤が置いてあったのだ。しかも対局の途中であるかのように、両者の駒は互いに敵陣に攻め込もうとしているのだった。
 突然-まさに、心臓から口が飛び出しそうなほど-誰もいないはずの私の右側から声がした。
「さあさあ、あなたもごらんになっていって下さいな。それとも、これが終わったら、あたしと勝負してみますか?」
 私は、青くなっているに違いない顔をあげると、そこにはおばあちゃんが、にっこりとした表情をして楽しそうに、しかもその楽しみをできるだけ続かせようとするように、ゆっくりと話し始めた。
「あたしはね、こうなる前は、この方にいろいろなことを教わったんですよ。そりゃもうありがたくてありがたくて。だから、これからは、こうしてずうっとこの方の世話をすることに決めたんですよ。あたしに教えられることは何も無いけれど。あ、そうそう、一つだけありましたよ。何だとお思いですか。それはね、あなたのことですよ。あなたが半年ほど前に、この方のお友達に、お友達といっても、そりゃあもうとてもきれいなきれいな女の子だったんですがね。とにかく、そのお友達にあなたがどんなことをしてあげたかっていうことぐらいですかね。あ、気にしなくてもいいんですよ。何も煮て食っちゃおうっていうんじゃないんですから。ただ、こんなになっちゃったこの方-たぶんもうあまり動けないけれど-の遊び相手になって下さればいいんですから。ずうっとね。もちろん、お世話はあたしがしますからね」
彼の方を向くと、彼はかすかな、冷たい笑みを浮かべながら、静かに駒を並べ直していた。おばあちゃんは、眼球の無いぽっかり穴の開いた目と、歯の無い口と、しわだらけの顔で笑い始めた。
 私は、ドアに走って行っても、決して開けることは出来ないだろうと思った。

  

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