story5

人を想う心(続・きっかけ)

 やはり、「人を想う心」は、この汚れきった世界の中で一番きれいで、大切で、人として生まれ、生き続けるならば必ず持っていなければいけないものだと私は思うのです。もし、あなたがこの気持ちを抱いたことが一度も無いとしたら、偉そうなことを言うようですが、あなたは、残念ながら人ではありません。
 人は、どんなに暗く、長く続く、しめった洞窟にほうり込まれても、たった一つのろうそくさえ持っていれば、必ず出口にたどり着く事ができるのです。道がどれほど狭く、長くても、足元を照らすだけの小さな灯さえあれば、人は再び、明るい光の下でしあわせに暮らせるのです。
 嘘ではありません。この私を見てください。私は確かに一度、「人を想う心」を失いました。でも、完全に失ったわけではなかったのです。それはさすがに、中野隆が私から去って行ってしまったときには、心が張り裂ける、などといったありきたりの言葉では決して言い表せないほどの苦痛を嫌というほど味わいました。私が、この神谷めぐみが、本当に心を寄せることができると信じ、感じた中野隆が、風のように、何事も無かったかのように離れていってしまったのですから。
それでも今の私はこのとおり、隆といっしょに、それだけではなく、お互いの心を満たしながら、この白い部屋で暮らしているのです。もう何も望むものはありません。
隆と二人きりでいられるのですから。いつまでも、ずうっと。

今でも私は、「人を想う心」を失っていたあのころのことを思い出します。あれほど私は隆のことを思い続けたのに、彼にはすでに女がいたのです。私は大馬鹿者です。自分の、彼に対する気持ちばかりにとらわれすぎていたために、彼に婚約者がいるなどとは思ってもいなかったのです。中野隆ほどの男性ならばそれは当然予想されるべきことなのかもしれません。でも、私が初めて「女」として見て欲しいと感じた彼に婚約者がいて、私にはただの「先輩」としての存在価値しか無かったのかと思うと、それは私にとっては、あまりにもひどい仕打ちだったのです。しかも、私はそのことを彼の口から直接聞かされたのです。ああ、彼は私の気持ちなどこれっぽっちも気づいてはいなかったのです。そうでなければ結婚相手の話など私にするはずはありません。私は、他人に自分の気持ちを絶対に知られてはならないと思い、努力を続けてきましたが、それも下らない、無意味な努力だったような気がします。
 その後は、自分の抱いた気持ちを素直に隆に伝えていればよかったのか、もしそうしていれば・・・、などと過ぎ去ったことをあれこれ思ったり、「どうして、どうしてなの」と泣く夜が続きました。
いくらがむしゃらに仕事を引き受け、こなしても、自分の心の真ん中にあるものを見て見ぬふりをすることはできません。『中野隆には婚約者がいる』『私の心は彼には通じない』などなど、そんな言葉ばかりが絶えず頭の中を駆け巡っていたのです。
仕事をしているとき、していないとき、食事の時間、通勤の時間・・・。一番つらいのは、やはり朝、起きたときでしょうか。どんなに晴れて、青空の広がった朝でさえ、 いいえ、そういう、いわゆる「すがすがしい朝」ほど私の心には、暗くて重い雲が、どんよりとおおいかぶさっていたのです。

ある日の仕事帰り、いつものように無駄と知りつつも、お酒で気を紛らわそうと、一件の飲み屋へ、ごく普通の飲み屋へ入りました。それにしても、毎晩毎晩、お酒を飲み続けるというのも、昔の自分からはとても考えられないことでした。
 そして私は何を思うわけでもなく(飲んでも駄目なのです。前向きな、新しい考えが全く浮かばないのです)、お酒を飲み続けていると、隣のテーブルからの声が耳に入りました。悲しい声でした。
「どうせ私はオモチャだったのよ、そうよ、そうに決まっているわ」
「そんなこと無いわよ」
「いいのよ、かばってくれなくたって」
 見ると、二十二、三才くらいのかわいらしい女の子が、女の私でも、もったいないと思うくらいに、ぐちゃぐちゃな顔で泣いていました。
「でも、でもあたし、くやしいのよ。今までのこと、今までのあいつとのこと、全部思い出にすることなんか絶対にできないのよ」
 一緒に飲んでいる女の子は、泣きじゃくっている相棒を、ほんの少し茶色がかった瞳でじっと見つめながら、ゆっくりとこう言いました。
「人の心を変えることはできないのよ」
 顔の崩れた女の子は、その言葉に顔をあげました。
「え?」
「だからさ、人の心を変えることはできないの」
「でもあたし・・・」
「『でも』じゃあないのよ。私もそれがわかるまで、何度も何度も、それこそナオミみたいに顔を汚くして泣いたけどね」
 さっきまでの泣き顔を少し明るくさせて、女の子は聞きました。
「ノリコにもそんなこと、あったんだ」
「あたりまえよ。私にも、男に泣かされたことはあったのよ。さあ、いつまでもそんなくちゃくちゃな顔してないで、どんどん飲みましょ!おかわりしておくから、はやく その顔をなおしてきたらどう?」
「そうね、そうするわ」
 一人残った彼女と私の目が合いました。お互い小さく微笑んだだけでした。私は『本当に変えられないの?』と心の中で彼女に問いかけましたが『あきらめなさい』という返事が返ってきたような気がしました。
 やがて、『かわいらしい顔』の女の子が戻って来ました。彼女たちの話題は、ごく普通のものになっていき、さっきのことは私の頭の中だけに残っていました。私は、一人お酒を飲みながら、さっきの言葉を小さく、聞こえないほど小さく、繰り返しつぶやいていました。
「人の心を変えることはできない」
お酒を一口飲んではその言葉をつぶやき、また飲む。その繰り返しだったような気がします。その後は、もう朝です。そして慌てて出社する。そんな日々が続きました。
 何も考えない、と言ったらいいのでしょうか、考えない、というか、もちろん頭をからっぽにしているというわけではありませんが、何事にも『打ち込む』ということが全くできなかったのです。
 それでも私はただ一つ、『打ち込む』というほどのことではありませんが、詩を書きました。今、ここにある日記の、最後のページにあります。前にもお話ししたことがあるかもしれませんが、幼稚で、愚かな作品です。


  冬の青い空 あなたと二人道歩く
  風は冷たいけれど あなたとしゃべれるから

たぶん気づいていない
  それとも気づかぬふりを?

  ただ好きです その言葉が言えなくて

  好きです それだけです それだけでこんなにも
>  実は、ここまでは以前に作ってあったものなのです。中野隆に純粋に夢中だったころに書いたのだと思います。隆から直接婚約者のことを聞いてしまった私は、この続きをこう書きました。


私のいないところで きっとたくさん楽しい思い出
 それでもいいの 私はあなたと夢で会うから

   そこでは二人


 そこで終わってしまっています。私たちは夢の中でしか会えなかったのでしょうか、いいえ、そんなことはありません。確かに、この愚かな詩を書いたときはそう思ったの かもしれません。でも、それは私が『人を想う心』を失っていたときのことにすぎないのです。

 私がその心を取り戻すきっかけとなったのは、ある夜遅く、いつものように一人飲んだ帰りのことだったと思います。そのとき私はふらふらと街をさまよい歩いていて、か なり飲み過ぎて意識もはっきりしないままの状態でした。でも、たぶん私はその「何だかわからない」状態を楽しんでいたのだと思います。すべてを忘れてしまいたかったか ら。すべてを忘れて毎日を暮らせたらどんなに楽かわからないと信じていたから。
 そして私は街のどこかの暗がりで、言われるままに、「悩みを解決してくれる」とい何か高価な買い物をして、家に帰ってそれを試そうと思った瞬間、顔の見えない人に話しかけられていたのです。
「聞こえる 聞こえるよ これはきみの笑い声? いや、違うね、残念だ。これはきっと、きみの泣き声なんだね?」
 それは、私の孤独な、不安な、寂しくて消えてしまいそうな心を、そっと暖かい毛布でくるんでくれるような、そんな声でした。
「そう やっぱり きみの泣き声 きみの深い悲しみの森から流れ出る泣き声なんだね。でも もう心配することは無いんだよ 僕がついているんだからね 僕がきみの泣き声を笑い声に変えてあげるから」
 私はその言葉に導かれました。汚れきったこの世の中にも、こんなにも優しい人がいるのだと実感できたのはこのときが初めてでした。私はその声について行きました。そ の声は決して私を置き去りにすることなく、ゆっくりと、でも確かに、狭くて暗い道を、遠くに見える輝きに向かって私を導いてくれたのです。その声が誰かなどということはどうでもいいことでした。信じることができるのだから、それ以上のことは望みません。
その声が私を彼のところまで連れて行ってくれるのですから。

 そしてついに私は、私は、愛する中野隆と再会していたのでした。隆はこの私の部屋に、満面の笑みをたたえていました。ええ、ここまで導いてくれた彼には感謝をしなけ ればなりません。私の全てである中野隆と再び会わせてくれたのですから。
 何故だかはわかりません。でも、その日から、隆が、私の隆が部屋に訪れてくれたのです。もっとも、いつのまにか隆がいなくなってしまうときには、また夜の街をさまよ わなければなりませんでしたが。
 でも、でも隆が、わたしの隆が戻って来てくれたのです。その事実だけは確かで、何の疑いも無いことなのです。
「僕にはめぐみさんが必要なんだ」
 ああ、この言葉を私がどれほど待ち望んでいたことか。
「私も、私も・・・」
 そう言って嬉しさのあまり泣き出す私でした。
 それでも私はどうして隆が戻って来てくれたのかが気になり、聞いてみたのです。
「・・・もう、もうあの人はいいの?」
「うん、あの事故の後、彼女は何もかも、彼女自身さえも捨ててしまったんだ。もちろん、僕のこともね」
 私は、隆のその言葉を聞いて、これだけは正直に言いますが、私は、とても、それこそ飛び上がるくらいに、その、嬉しかったのです。私は決して、『きれいごと』は言い たくはありません。愛する男性が戻ってきてくれたのです。それはもう願ってもないことではありませんか。余計なことをして、隆を失いたくはありません。もう、二度とあ の苦しみを味わうのはごめんです。
 私は間違っているとは思いませんし、少しも悪いとは思いません。それは、彼女も今ごろはどんなに悲しんでいるかわかりません。でも、彼女は彼女、私は私です。男に捨 てられた一本足の女の面倒など、私には見ることはできません。

今私は、この白い部屋で隆と二人きりです。お互い見つめあい、笑い、楽しいときを過ごしています。
 ふと気づくと、誰かが窓から私たちをのぞき込んで、低い声でこんなことを言っているのが聞こえます。
「ここに来て以来、ずっとこうなんですよ。一人で何やら楽しそうに喋り続けて」
 それに応えて、そんなことはあるはずがありませんが、私のそばにいるはずの隆にそっくりな声が「そうですか」と、がっくりした様子で言いました。隆があんなに落ち込んだ、暗い声で話すわけがありません。私は決して騙されません。隆と同じ姿、同じ声をしていても、絶対に騙されはしません。私はそれほど馬鹿ではありませんから。
 そしてさっきの声が
「神谷めぐみは、当分ここから出られないでしょう。かわいそうな人だ。あんなにきれいな顔をしていたのに、すっかり、なんというか、汚れてしまって。でも、表情だけはあんなに生き生きしている・・」
 人の家を勝手にのぞき込んで、何を馬鹿なことを言っているのでしょう。狂っているとしか思えません。そのうち、きちがいたちの声は無くなり、残ったのは私と隆の二人 になりました。
 私には、もう心配をすることも、不安におびえることも、悲しみにくれることも、後悔することもありません。今の私は「人を想う心」をもっていますし、そばには隆がつ いていてくれるのですから。

戻る