story4

きっかけ

 しょせん、洒落た『きっかけ』、たとえば、買い物帰りに夕立に降られてしまい、仕方なく近くの喫茶店に飛び込んで雨のやむのを待っていると、同じくずぶ濡れで入って来た男性とあい席になり、何となく話しているうちにお互いにうちとけて・・・などということは作り話の中だけの出来事なのだと私は思うのです。少なくとも私には、そのような『きっかけ』はありませんでした。

 私が中野隆に恋をしてしまったのは、彼が支社から、本社の私と同じ課に転属されてきてから二週間がたつかたたないかのことでした。いいえ、恋をしてしまったのが「いつ」からかなどということをはっきり言い切れるはずはありません。言い直すならば、中野隆に恋をしてしまった自分に気づいたのが、彼が私と同じ課に転属されてから二、三週間が過ぎた頃、とでもなりましょう。
 私にとって中野隆は、初めて、生まれて初めて自分から本気で好意を寄せることのできる相手と言えました。
 私は今までに、誰かに『惚れた』ことがありませんでした。もちろん、『一目惚れ』をしたこともありません。でも、さすがに私も女なので、中学、高校になるあたり、いわゆる年頃、とでもいうのでしょうか、そのころにはまわりの女の子と同様、まだ憧れである『恋』というものの味を知りたいという思いが芽生えてきていました。
 憧れの男性と一緒に、桜並木を話しながら歩き続ける・・・あるいは、好きな男性をかげからそっと見守って、ささえてあげたい・・・そんなイメージをなんとなく頭の片隅で抱き続けていたのを思い出します。

 でもそれは、ただのイメージ、妄想でしかありませんでした。私が心から追いかけたい男性など一人も現れなかったのです。別に私はとびきりの、全く欠点の無い男性を期待していたわけではありません。私はただ、私が素直になれる、そしてお互いに認めあえる男性であればそれで十分過ぎるほどだったのですが、そのような男性に出会うことはありませんでした。
 私は逆に、『惚れられた』ことは何度も、それこそ数え切れないほどありました。
というのも、-決して自慢、うぬぼれで言うのではありませんが-私は、男たちの言う、いわゆる『いい体』をした『美人』だったからなのです。
 だから私は過去に、実に様々な男(「男性」とは言いません)からの誘いを受けました。そして何人かの男たちとつきあった結果わかったことといえば、男たちのいわゆる「告白」や「愛情」、「思いやり」、「優しさ」などというものの一切、全ては、本当のもの、真実のものではないのだということでした。
 結局、どの男も私自身ではなく、私という「もの」とつきあいたかっただけだったのです。
 だから私は、もうすぐ二十九になるというのにもかかわらず、まわりと違って浮いた話の一つさえ無くても、何ら気落ちすることなく毎日を送っていました。

「中野隆と申します。これから本社の皆さんと頑張っていきたいと思います。どうぞ、よろしくお願い致します」
 ごく簡潔に、でも遠くでもはっきり聞こえそうな声で自己紹介をしたそのときの彼には、特別な印象は受けませんでした。でも、その後、一緒に仕事をするようになってから、次第に彼のことがわかってきたのです。

一つ下の彼ではありましたが、仕事に関してはこの私と同じくらいの力を持っていました。はじめのころは、そのストライプのシャツにアームバンドなんかをしていたので、ただのチャラチャラした男だと思っていたのですが、それは大きな間違いであることがすぐにわかりました。彼は、転属されて三日もしないうちに、私がこの職場について思っていたことを感じとったのです。
 いい意味では「ゆとりのある職場」というのかもしれませんが、私に言わせれば「一日中おしゃべりをしている仲良しクラブ」にしか見えないこの職場を彼は、半分あきらめていた私とは違って、何とか改善していこう、という行動に出たのです。
 別に彼は一人一人に説教してまわったわけではありません。普段の何げない会話の中に、ほんの少しずつ、一人一人の意識を高めようとする言葉をちりばめていったのです。そのことによって、自分の能力に疑問を感じていたある後輩が今ではすっかり 自信がついた、などの「変化」が私には十分感じられたのです。
 だからといって、彼は決してまじめなだけの人間ではありませんでした。冗談も言うし、息抜きもする。ただ、その仕事との切り替えが実にはっきりとしていて、だらだら、という印象が全く無いのでした。冗談-いつもセンスのいい、誰もが笑えるものでした-を言って人の心をなごませたかと思うと、言った本人はもうすでに仕事の顔に戻っている、といった具合でした。
 とにかく彼は、人を引っ張っていくのがとてもうまかったのです。それは逆に私が見習わなければならない能力でした。まわりの人間も、彼のことを快く思い、悪く言う者など一人もいないようでした。

 そんなふうに客観的に彼を見ていたつもりの私でしたが、最初に言いましたように、次第に彼のことが気になるようになっていったのです。正直言って、そんな自分が悔しいと最初は思っていました。自分の心に、何と言ったらいいのでしょうか、はっきりとしない、つかみどころのない霧のようなものが絶えず存在している、ということが私には耐えられなかったのです。でもそれこそが、今まで私が経験したことの無い「人を想う心」、そして、私が学生のころに憧れていた『恋』というものの味にほかならなかったのです。
 そのことに気づいてからの毎日は私にとっては苦痛の日々でした。表面上は何もないような顔をしていながら、心の中では常に、この気持ちが他の誰かに知られてしまうのではないかと恐れていたからです。自分でさえまだとらえることのできない気持ちを他人に知られてあれこれ言われたりするのだけは避けたかったのです。この気持ちを、ゆっくり考えることのできる時間が来るまで、どこかにそっと、とっておきたかったのです。誰にも触れられずに。
「一番安全な隠し場所は、自分の心の中だ」という言葉をどこかで聞いたことがあります。でも、完全な秘密などというものはこの世には無いのではないでしょうか。たとえ誰にも話さなくても、何かのひょうしで、ほんのちょっとしたこと-表情、しぐさ、言葉遣い-から、知れてしまうのです。それだから私は、毎日を過ごすのが苦痛だったのです。
 そのころ、私は体の調子を崩してしまったようでありました。自分で言うことではないのかもしれませんが、どうも精神的な疲れも原因の一つではないかと思うのです。
運の悪いことに、ちょうど仕事も忙しくなってしまいました。

 ちょうどその忙しい二、三日のあいだ、有能な彼が休みをとったのも、大きな痛手ではありました。その分、仕事量が増えてしまったのです。彼がこなしてきた量はかなりのものだったのです。しかも、量だけこなせば良いというものではなくて、内容も込み入っているものでした。彼が休みをとった理由は、誰かのお見舞い、ということでした。行き先は地方の病院という噂でした。
 精神的、肉体的にゆとりの無い状態が続きました。
 それでも私は、そのような状態が続いて良かったとは言いませんが、少なくとも自分の、不確かな気持ちと離れた場所にいることができたのです。そうです、何かに没頭しているあいだは、そのときに気になって仕方のなかったことでさえも忘れてしまうのです。
 自分の仕事が片付かないまま、みんなが帰ったあと、半分電気の消えた、夜遅いオフィスで一人じっと窓の外を見ながら、私は思ったのです。ちょっと忙しくなっただけで忘れてしまうようなものは自分が本当に大事に思っているものではないのではないか、と。本当に、心から自分が大事に思っているものは、片時も、一瞬も忘れてはいけないものなのではないでしょうか。それなのに自分は、あの、いつも通りのくだらない-でも完璧にこなしていかなければならないもの-『仕事』のために、彼を想う気持ちを忘れてしまっていたのです。もう、それだけで、自分には彼を「想う」、彼に「恋する」資格など無いのではないかと考えてしまうのです。
 まだいくつか、とぎれとぎれについている窓の外のビルの明かりを見ながらそんなことを考えていたときに、彼の声-一人一人にやる気を起こさせる、そして、私には初めての女としての心を目覚めさせるような声-が私に、優しく(でもそれは私が勝手に解釈しているのかもしれませんが)響いたのです。

「神谷さん、突然休んでしまって大変申し訳ございませんでした。ただいま、戻りました」
「あら・・」
 ぼうっとしたまま振り向いた私に近づくにつれて彼は、そのいつもは快活さにあふれている表情を曇らせました。
「どうしたんですか。そんな悲しそうな顔をして」
あなたのことを考えていたのよ、あなたがこの私を変えてしまったのよ、などとはとてもではありませんが言えませんでした。でも、言いたくて仕方なかったのです。
あのときに言っていたとしたら、「好き」と言っていたら、一体どうなっていたのでしょうか。いけません、過ぎ去ったことをあれこれ言ってみてもどうにもなりません。
それは今まで私が、してはいけないことだと自分に言い聞かせ続けてきたことだったのです。今までは守ってくることができたのです。でも、どうやら、彼のこととなるとそんなことはすっかり忘れてしまっていたようです。感情に押し流された、馬鹿な女とお思い下さい。
「どうも、うまくいかなくて。ちょっと考えていたの」
でも私にはもう、残りの仕事を片付ける気はありませんでした。二、三日ぶりに彼の顔を見ることができ、彼の声を聞くことができただけで、もうそれでよかったのです。何が、どう「よかった」のかは、わかりません。もう一つ、私が考えていたことは、彼と今日会うことがわかっているのであったならば、ちゃんと化粧をしておくのだった、ということでした。どうせ、彼とは今日は会わないと思っていたので、手抜きの化粧で出社したのでした。彼以外の人で、私をきれいに見せようなどという対象はいません。

「残りは、明日にでもやろうかしら」
 すると彼は、ほんの少し、気のせいかやつれたように見える顔-恐らく、地方のご家族のどなたかのお見舞いに行って来た疲れなのでしょう-を上げて、いつもの、明瞭な声で、まるで私だけではなくて、フロアじゅうに聞こえるように言ったのです。
「神谷さん、そんな弱気なことでどうするんですか!こんなものはすぐに片付けてしまいましょう。一緒にやってしまいましょう」
 そう言い終わらないうちに彼は私の机のところへ早足で向かったのです。私も慌てて机に戻り、彼に内容を説明し、二人で黙々と作業を続けました。
 さすがに、私と彼と二人でやったので、二時間くらいかかると思っていたものが、三十分ほどで終わってしまいました。
 仕事を一つやり終えたという充実感が私の中に満ちあふれていました。いいえ、充実感だけではもちろんありません。
「終わりましたね」
と、声をかけてくれる彼の笑顔がすぐそばにあるからこそ、私の心はなごんだのです。
 今だけは、このままの気持ちでいたい、何も考えずにただ二人でいたい、そう私は切望していました。ふと彼の方を見ると、彼は椅子に座ったまま、首をかくんと下に向けて眠ってしまっていました。私はそんな彼の寝顔を見て思いました。この人だけはいつも私の目を見てものを話すのです。誰も、とは言いませんが、大抵の男性は私の体に目がいってしまうようでしたが-私もできるだけ目立たないような服を選んでいるのですが。でも、だから夏は嫌なのです。余計な気を使わせてしまうのが。-彼だけは私の目だけを見て、私という人間と話してくれていたのです。

でも、何という矛盾でしょう。私は今までに、彼のような人を-私をただの「女」として見るのではなくて「人」として見てくれる-待ち望んでいて、実際に彼が目の前に現れたというのに、今、私は気づいてしまったのです。私は彼に、「女」として見て欲しいと体中から熱く望んでいるということに。彼が目を覚ましました。
「あ、いけない、もう帰らなくちゃ」
「だいじょうぶ?だいぶ、疲れているようだけど。ところで、どうして会社に戻って来たのかしら。今日は何も会社に寄ることはなかったのに」
「ええ、でも、やり残したことが気になったもので」
「そう。でも大丈夫。みんな、あなたの置いていった指示通りにちゃんとやってくれているわよ」
「そうですね。さっきちらっと見て確認したのですが、どれも僕の思った通りに出来上がっていました。みなさん、優秀な方ばかりです」
 私は、疲れぎみの彼が何だかかわいそうになってきたので、話をきりあげることにしました。
「そろそろ、帰りましょうか。明日もあることだから」
「はい、そうしましょう」
 そうして二人で戸締まりをして、冷たい空気のはりつめた冬の夜へと出ました。
「今日は、本当にありがとう。私がやらなければいけないことをやってもらってしまって」
「いいえ、いいんですよ。そんなことは」
 私は、そんなつまらない仕事の話なんかしたくはなかったのです。彼のこと、中野隆の話を聞きたかったのです。でも、二人きりで、誰も他にはいないということがわかっていても、私は自分の気持ちを伝えることが、どうしてもできませんでした。そしてそのまま、あたりさわりのないことを話しているうちに、別れ道に来てしまいました。

「お疲れさま」
「はい、失礼します」
 そう言い残して、彼は去って行きました。ほんのつかのまの、彼と二人きりになれた時間。嬉しいのか、悲しいのか、私にはわかりません。でも、少なくとも、明日もまた彼と会えるのだ、という思いだけが、しばらくのあいだたたずんでいる私の心をほのかに、あたたかくしてくれたのでした。
 次の日から、私はとても順調に働くことができました。とりあえず、もう少したってから、ゆっくり自分の気持ちについて考えることにしたのです。少なくともそれまでは、何事もなく彼と一緒に働ける、と思うと、ひょっとしてそのままでもいいのではないかとさえ思うときもありました。
 でもときどき、彼と二人で出張に行くことがあると、やはり緊張してしまいました。
もちろん、それを表情に出したりはしませんでしたが。彼と一緒ならば、どんなに冬の冷たい風に吹かれても私は寒くはなかったのです。(ところで、私は日記をつけているのですが、その日にあったことを文章にするだけではなく、印象的な出来事のあった日には、お恥ずかしい話ですが「詩」にすることもあったのです。もちろん、その、二人で冬の道を歩いたことも「詩」にしました。本当にくだらない、およそ「詩」とは言えないようなものではありますが、いつか機会がありましたらお見せしたいと思います。そのときには、どうぞ、嫌がらずに、ああ、そういえばそんな愚かな女もいたな、と思ってお読みください)
 とくに、これといった出来事のない日々がしばらく続きました。私の、彼に対する気持ちも何とか落ち着いて-決着はもちろんついてはいませんでしたが、逆に、いつかはつけなければいけないのですが-いたようです。「彼を想う自分」に安心しきっている、とでもいう状態でしょうか。

そんなある日、私はおもいがけないものを見てしまいました。
 その日の夜遅く、私がそろそろ帰ろうと、作り終わった書類から顔を上げたとき、私は、はすむかいの彼が、頭を抱えて悩んでいる-その表情は今までに一度も見たことの無いようなけわしいものでした。-のを見たのです。一体どんなトラブルがあったのだろう、と思いました。と同時に、仮にも彼の上である私が気づかないまま彼を悩ましてしまうような障害があったのかと思うと、自分の情けなさにあきれてしまいました。
「どうしたの?何かあったの?」
 問いかける私に、彼は両手で頭を抱えたまま、こう答えました。
「すみません、仕事とは関係の無いことです。ただちょっと、考えてしまって。もう、うまくいかないのか、と思ってしまって」
 私は何を言えば良いのかまったくわかりませんでした。でも、どんな問題を彼が抱えているのかは知りようがありませんでしたが、とにかく彼の「力になりたい」という思いだけが私の心を揺さぶっていました。
「何があったのかは私にはわからないけれど、立ち止まってしまっては、どうにもならないわよ。動くものも、いつまでも止まったままよ。このあいだ、あなたは私に言って くれたじゃない。『そんな弱気なことでどうするんですか』って。だからあなたも、がんばって。お願い。自信をもって」
 彼はゆっくりと、私に顔を向けてくれました。そのけわしい表情を少しずつやわらかくしながら、こう言ったのです。
「ありがとうございます。神谷さん。そうですね、何事も、弱気になったり、苦手意識をもったまま向かってはいけませんね」

 私は嬉しかったのです。彼が、もとの、いつもの笑顔を取り戻してくれたのが。私は、もし彼がこのまま、悲しい顔のままで毎日を過ごすのだったら、それほどつらいことは無いと思っていました。でも、私の言葉で-彼の言葉を返しただけではありますが-彼が元気を取り戻すことができたので、それは、私にとって最高の喜びでありました。
 翌日からは、再び順調な日々が続きました。
 私は自分でも気づかないうちに、心の準備をしていたような気がします。いいかげんに、そろそろこの想いを伝えてしまわなければいけないのではないか、と。チャンスがあったら思い切って言ってしまおう、とさえ考えていました。もう、ここまでくればどうなってもいい。私は彼にこの想いを伝えたいだけだ、と覚悟を決めていました。
 そしてある月曜日の夜、たまたま帰りに二人一緒になったときに、私が、もしかして「今」が待ち望んでいた「とき」なのかもしれない、と感じとったときに彼が言ったのです。

「神谷さん、ちょっとお時間はないでしょうか。お話があるのです。すぐに終わりますから」
「ええ、いいわよ」
 私は言われるままに彼の提案した近くのバーへと向かいました。
「いらっしゃいませ」
 きりっとした服装の男性が私たち二人を迎えてくれました。
「すみません、もう、飲むところしか開いていないようだったので。ここにしてしまいました」
「ううん、私は全然かまわないわよ。落ち着いていて、いい雰囲気のお店ね」
「はい。ええと、神谷さんは、何をお飲みになりますか」
「それじゃあ、私は、オレンジブロッサムをもらおうかしら」
 やがて彼は私の分と、彼のマティーニを頼みました。
「それで、お話っていうのは何かしら」
 ああ、私は彼の告白が待ち切れなかったのです。何の感情も無いふりをして聞いたつもりでしたが、きっと、そのときの私の顔は期待であふれていたのかもしれません。
 彼はちょっとだけためらってから話し始めました。

「じつは、あなたにどうしてもお礼を言いたかったのです。というのも、私には以前から付き合っている女性がいました。彼女とは私が支社に入る前からのつきあいで、い ずれ、一緒になるつもりだったんです。結婚したら、一緒にこっちで暮らそうということになっていたのです。でも、このあいだ、彼女が事故にあってしまいました。私はお休みをもらって-この前ご迷惑をかけてしまったときなのですが-彼女の入院先にかけつけたのですが、彼女は、錯乱状態だったのです。それは、もう彼女は、歩くことができない体になってしまったからなのです。足を切断する以外に命を助ける方法が無かったのです。私はそんな彼女に何もしてやることができませんでした。やがて、婚約破棄の手紙が送られて来たのです。そのときに、私をはげましてくれたのが神谷さん、あなたなのです。あなたに勇気づけられたおかげで私は、彼女を取り戻す決心をしたのです。昨日私は再び彼女のお見舞いに行きました。そして、混乱して、未来を、すべてを失ったと勝手に思い込んでいる彼女に言ったのです。『そんなことでどうするんだ、体の一部を無くしくらいで。お前には俺がいるじゃないか』って。
ちょっときついことを言ってしまったかもしれませんが、彼女はわかってくれたのです。彼女は『はやくあなたの働く東京で、一緒に暮らしたいわ』と言ってくれたので す。これも全てはあなたのおかげです。本当にありがとうございました。何だか、会社だと言いづらくて」
 満面に笑みをたたえる彼と比べて、私の顔はきっと凍りついていたに違いありません。
私には「うまくいって、本当に良かったわ」というありきたりの言葉を返す以外にありませんでした。そのあとの会話や、飲み物の味など覚えているはずはありません。

つまらないお話をしてしまって、すみませんでした。まったく、お恥ずかしいことです。
私がある人に夢中になって、でもその想いがとどくことは無かった、それだけのことなのです。それだけのことなのに、その日から私は、全てにおいて「やる気」というものが失せてしまったのです。もう、どうでもいいのです。彼の生き生きとした仕事場での姿がこの私を苦しめるのです。これからもこのようなことが何度も何度もあるのであれば、私は遠慮したいとさえ思うようになってしまいました。「人を好きになる」とは、これほどまでにも残酷なことだったのでしょうか。私は思うのです。職業を選ぶ自由、言論の自由、思想の自由があるのであれば、生き死にの自由もあっていいのではないか、と。もう、これ以上耐えることは、この私にはできません。せいぜい、普通に暮らしていくことさえできない馬鹿女がいたな、くらいにお思いくださって結構です。
 最初に私は『きっかけ』などは無い、と言いました。でも、お笑い草ではありますが、『きっかけ』はここにありました。この私です。私の、彼をはげました言葉が、中野隆の結婚の『きっかけ』となってしまったのです。本当に、おかしくて、ばかばかしくて、こうして夜中の二時半に一人、ちらかった部屋で、お酒などを飲み、良くない薬などをどこからか手に入れてきて、それを試しながら、明日の仕事のことなど気にせず-もう、連絡もせずに会社を休んでから何日たつのかわかりません-ぼさぼさの髪と、かさかさしてしまった肌で、へらへらと笑っております。

 

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