story3

笑顔

 珍しく授業が早く終わったその日、僕はこれまた珍しい真昼の電車に乗ることが出来た。いつも乗る夕方の電車と違って、うるさい高校生達の姿はほとんど無く、席もかなり空いていた。
 僕は、日の当らない座席の一つにゆっくり座り、かばんを開け、中を見て、そして今の僕のささやか楽しみを忘れてきたことに気づき、苦笑いした。
それは一冊の古びた文庫本。一週間位前に偶然古本屋で見つけたアメリカ人作家 の短編集-あまり有名ではないけれど、少なくとも僕にとっては面白い話ばかり入っているのだ-なのだがどうやらそれを大学で失くしてしまったようなのだ。でも、いつ、どこで失くしたのだろう。静かに動き出す電車の振動に揺られながら僕は思い出そうとしたが、無駄だった。
 ああ、まだ途中までしか読んでいなかった最後の話の二人は一体どうなったんだろう。離ればなれになった後、偶然にも同じ電車に乗れたのにお互い違う車両にいて気づかずにいるとは。
 まあ、またいつかどこかの古本屋で見つければいいか。べつに本一冊失くしたからといって死ぬわけでもないし・・・。でも、やっぱり落ちこんでいる今の僕にとって、少しでも気を紛らわしてくれる物を失くした事はくやしくてならない。
 そう、僕は今、ひどく落ちこんでいる。理由は、ありふれた事だ。ある女性と別れた、それだけのことだ。しかし、これほどまでに苦しいとは。ここ何日か、毎朝のように僕は思う。まるで何事も無かったかのように始まる一日がたまらなく憎い、と。

 そんな事を考えながら、僕は初めて顔を前に向けた。すると、丁度僕の向い側の席に、おそらく僕と同じ位の年の一人の女の子が座っていた。
 いや、そんな単純な言葉で言い表わせることなんかじゃなかったということをわかって欲しい。服装なんか憶えていないし、もの凄い美人というわけでもなかったけれども、その娘の小さな顔には、今の僕には絶対に手に入らないもの、つまり本当の笑顔があったのだ。
 気づくと、電車はかなり速度を上げていた。窓の外の景色が飛ぶように流れていく。
 心地良い揺れと涼しい風、そして真昼の太陽。普段何とも思わなかったものが、こんなにも僕を落ちついた気分にさせてくれるとは。
 でも、何よりも一番ありがたかったのが彼女の笑顔だった。一体、どんな事を考えているのだろう。これっぽっちの悩みも無いのだろうか。何の苦も無く毎日を過ごしているのだろうか。自分は今、どん底にいるというのに。
 そう思いながらじっと彼女を見ていたら、目が合ってしまった。僕は間違いなく、嫌な顔をされるかそれとも、ソッポを向かれると思った。
 ところが彼女は僕に、この僕に、にっこりと微笑んでくれたのだ。これは気のせいかもしれないけれど、僕には彼女が小さく頭を下げたかのようにも見えた。僕もできる限りの笑顔で答えたけれども、内心、自分が嫌になっていた。
 ただ向かいの席に座っただけで一言も言葉を交わしていないけれど、彼女が純粋な心を持つ人だということはわかった。
 それなのに僕は彼女に対して下らない考えしか持てなかった。そして次の駅に着いたとき、僕はさらに自分を恨んだ。
 電車が徐々にスピードを落とし、ホームにすべりこむと、彼女の隣に座っていた母親らしい女性が立ち上がった。その女性が彼女を椅子から起こし、肩を貸すと、彼女はまだ新しそうな松葉杖を使いながらぎこちなく、でも用心深く、白くて細い一本の足で電車から降りていった。

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