晴れた日の、広い公園が好きだ。
暑い夏が終わって、ときどきさっぱりとした風が吹くような日なら、言うことなしだ。
そんなことを考えながらベッドを出てカーテンと窓を開けてみると、まさに理想通りの空がそこにあった。昨夜の激しい雨が嘘のような、湿り気の無い朝の風が心地よい。雲一つ無い青空を眺めてから、コーヒーをいれる。
このまま天候が変わらないことを願う。今日は昼から、実家近くの大きな公園で、高校時代からの友人たちと集まることになっているのだ。
何年前からだろうか。皆が働きだすようになったある年の夏の終わり、自動車メーカーのテストコースの跡地にできた公園に集まるようになったのは。
最初は確か、落ち着いた雰囲気のレストランに集まったのを憶えている。その日、抜けるような青空だったので、その頃できたばかりのその公園にすればよかったのに、と誰かが言ったことから、次の年からその公園になった気がする。各自で酒や食べ物なんかを持ち寄って、公園の緑に囲まれて、青空の下、友人たちと語り合い、飲み、食べる。至福の時間だ。
もちろん、その前に会社に行って一仕事することを忘れてはいない。
先方の都合で日曜出勤となったが不満は無い。初めて自力で獲得した顧客との打ち合わせなのだから。今日、午前の最終確認でOKをもらえれば、うちの会社に利益をもたらすのだ。
今でも、郊外の5店舗の中規模書店を経営する初老の社長が、プレゼンテーションを熱心に聞いてくれていた時の真剣な眼差しをはっきりと思い出すことができる。きっとうまくいくだろう。
「じゃあ、正式に、おたくのシステムを入れることにするよ。よろしく頼む」
ほんのいくつかの質問に答えたり、補足説明をしただけで、すっかり納得してくれたようで、無事に契約をとることができた。
「いやあ、それにしてもきみ、熱心だねえ。安心して任せられるよ。最初はね、システムの導入っていったって、どうせ自分じゃ触らないで、各店の店長たちがいじるもんだろうって思ってたんだけども、おたくだけが、どうすればこの老いぼれに、コンピューターが使えるようになるか、そこから利益を出せるようにもっていけるか、っていうことまで考えてくれてるのがわかったもんでね。それかな、決め手は」
そう言われて肩をぽん、と叩かれたとき、うっかり電源を切り忘れていた携帯電話が鳴ってしまった。
「どうぞどうぞ、かまわないよ。話も終わったんだし」
社長は優しい目でそう言った。
電話は、今日これから公園で会う予定の仲間の一人であり、個人的にももう長い付き合いのある貴子からだった。
「どう?うまくいった?何時頃に来られるかしら?」
それこそ、たった今うまくいったんだよ、と言いたかったが、さすがにそれは我慢して、
「うん、そんなにかからないと思う」
とだけ答えておいた。
「彼女さんかい?」
「え、ええ、まあ。実は今日、高校の頃からの地元の仲間7,8人と、久しぶりに集まることになりまして」
社長はゆっくりと頷きながら言った。
「仲間か。いいよねえ。気の合う奴らと過ごす時間っていうのはさ」
と、突然我に返って、こう付け加えた。
「うん、じゃあ今日はこれでおしまい。もうきみのところに頼むことに決定なんだからさ。きみは早く、みんなのところに行きなさい。楽しい時間はあっという間だよ」
「はい、ありがとうございます!」
ようやく目標を達成できた。これで貴子に報告できる。後で直接言うことにしよう。今まで、自分の力で顧客を獲得することを一人前になる条件と決めていたのだ。そしてそのときに一緒になろうということも。マンションには戻らずにすぐに実家に戻ろう。そう決めて、早足で駅へと向かった。
実家の最寄り駅を降り、駅前の商店街を抜け、しばらく住宅街を歩くと、小さな公園が見えてきた。あともう少し。この公園の向こう側だ。中を抜けて行こう。
日曜日なので、小さい子供を連れた若い夫婦の姿が目立つ。どの子供も快晴の空の下、元気いっぱいに笑い声をあげて走り回っている。広い場所にいるだけで、おかしくて仕方ない、といった表情で。
そんな子供を見守る両親も、心からの笑みを浮かべている。
一仕事終えた直後の解放された気分のせいか、他人の幸せも感じられるようだ。人だけではない。子供が夢中になって追いかけている鳩たちも、それを離れたベンチに、ちょこんと乗っかって眺めている猫さえも、みんな満足感に包まれているように思えてならない。足元で、まだ少し残っていた水たまりでのたくっているミミズにまでも、何故か親近感がわく。何故だろう。
公園の反対側に出て、ようやく実家である小さな洋食屋が見えてきたところで、今さらながら気がついた。今日のように仲間と会う日は、一人ひとりが何かしら食べ物や飲み物を持ち寄ることにしていたことを。いつもなら前もって親父に頼んでおいたのだけれど、今回はすっかり忘れていた。
子供の頃から親父の料理を口にしていたから、それが普通の味だと思っていたが、外食をするようになってから、いかにうちの味が他と違うかがわかっていったのを憶えている。
だから今日、あらかじめ親父に頼むのを忘れたということは、毎回期待して待っている仲間たちを失望させることになってしまうということなのだ。まさか、忙しい昼時に突然余計な注文をするわけにもいかない。
まいった。さて、どうするか。
数秒間店の前で立ちすくんでいたものの解決策は思い浮かばず、とりあえず中に入った。スーツを着替えなくてはならないし。
久しぶりの両親の仕事場。パスタがたっぷりの湯で茹でられ、ソースの食欲をそそる匂いがあたりに立ちこめている。テーブル、カウンター、合わせて十五人ほどしか座れない店はほぼ満席だった。食べている客たちは親父の料理にすっかり満足している様子。
それはもちろん、いつものことだった。でもそれが、毎回こうして帰るたびに不思議な気分にさせるのだ。子供の頃から慣れ親しんだ味を、見ず知らずの他人、それも大勢の人たちが「美味しい」と言ってくれて、何度も足を運んでくれる人もいるのだから。
「ただいま」と、狭い厨房でてきぱきと手を動かす親父に声をかけた。あれ、一人なのか。母さんは?
「おう」と親父はほんの一瞬だけこっちに目を向け、再び調理を続けながら言った。
「母さん、今朝階段で転んじゃってさ。二階で横になってるよ」
「え、大丈夫なの?」
「ああ、大したことはないと思うけどな」
一応様子を見に上がってみようか、と思ったそのとき
「そうそう」と親父が、厨房のはじを指さして言った。
「そこに置いといたから、持って行きな」
無造作に置かれた紙袋を覗いてみると、パスタの入った大きめのタッパーがあり、別のいくつかのには何種類かのソースが入れてあった。
「ありがとう。でも、今日仲間と集まること、何で知ってた・・」
「あ・た・し!」
と、店の奥から現れたのは幼馴染の貴子だ。彼女は底の広そうな、大きな布の袋を持ってきた。
「おじさん、この布の袋でいい?」
「ああ、それそれ。それなら全部入るよ」
「ありがとう、お借りします!」
彼女は子供の頃からの、家族ぐるみのつきあいのある隣の家の一人娘で、店が忙しいときには手伝いに来てもらっているくらいだ。
「今日は大事な仕事の日だったんでしょ。だからひょっとして、おじさんのおいしいパスタのこと、忘れてないかと思ってさっきの電話の後、確かめておいたのよ。あー、確かめておいてよかったわ」
そうだったのか。前にも一度頼むのを忘れたことがあって、そのときは特に店が忙しくなってしまい、諦めたっけ。
「貴子ちゃんの頼みじゃあ、断れねえやな。そうそう、ソースは食べるときに、よおくからめてな。一応、冷えてもうまいように作ってあるからさ」
勢いよく店のドアが開くと同時に鈴が鳴り、貴子の父親が入ってきた。
「よっ、こんちは」
「いらっしゃい!いつもすまないね、貴子ちゃん借りちゃって」
「いいのいいの、どんどんこき使ってちょうだいよ。ええと、さてさて、今日は何にしようかな、と」
と言いながら少しの間手をすり合わせながらメニューとにらめっこした後、
「よし、今日はこれだ、これに決めた。トマトソース、トマトソースでいきましょう」
「あいよ」と親父。
「あ、そうだよ、貴子から聞いたよ。奥さんの具合はどう?」
「あいつもおっちょこちょいだからねえ。でも別にたいしたことはないと思うよ。貴子ちゃんも手伝ってくれてるしさ。うちのよりよっぽどきびきび動くし、何しろ、べっぴんさんだしね」
食べ終わった客のカウンターを片付けている貴子は、まんざらでもない様子。会計を済ませた客を、ことさら元気のよい、ありがとうございました、という声で送りだす。
そのとき、店の奥から母親が、用心深く歩きながら現れた。
「おう、足はどうだ?」
「うん、こんなの湿布しておきゃすぐに治るわよ」
そしてこっちを向き、貴子や、貴子の父親にも気づいてこう続けた。
「あらあら、お帰り。あ、貴子ちゃんも悪いわねえ。お隣さんまで、心配かけちゃって。ごめんなさいね」
「奥さん、無理しちゃいけないよ。うちの貴子を使ってもらってさ、しばらくゆっくりしてりゃいいよ」
「あたしより、べっぴんさんだものね」
意地悪っぽく顔を向けられた親父は、ちょっとばつが悪そうにしていたが、すぐにこう切り返した。
「そんなことよりお前、何十年も上り下りしてた階段で転ぶなんて、ぼけてきたんじゃねえのか?」
「何言ってるのよ。せっかく帰ってきても、顔見せたと思ったらすぐに帰っちゃう息子と、何があっても店を閉めようとしない頑固なこの人の家庭で、どうすれば一家団欒の時間を作れるのかってことを考えてたのにさ」
それを聞いた親父は、照れくさそうにこっちを見て言った。
「こいつも仕事、忙しそうだしさ。俺だって、せっかく来てくれるお客さんのこと考えると、そう簡単に店閉めるわけにもいかねえしさ。ま、しょうがねえやな」
「へえ、店やるのも大変だねえ。あ、そうそう。これ、持ってきたんだよ」
と、貴子の親父さんが、大きな紙袋を持ちあげて見せた。
「椎茸かい?悪いねえ。喜んで頂くよ。ありがとう」
貴子のお父さんは、ときどきこうして、実家で栽培しているという椎茸を分けてくれる。親父が嬉しそうに袋から一つを取り出して言った。
「これこれ。こいつを網で炙ってさ、ほんのちょっと醤油たらして。ああ、いいねえ」
そんな親父を見て母親が笑いながら
「この人ったらさ、ソースに凝っちゃって、雑誌なんかに『繊細なソースがどうのこうの』なんて書かれるくせにさ、自分が好きなのはこういう素朴なのばっかりなんだから。なんか、おかしいわよね」
「いいじゃねえかよ。椎茸っていうのはさ、炙って醤油をほんのちょっとだよ。ねえ」と、貴子のお父さんに同意を求めた。
「そうだねえ。やっぱりさ、こっちとしちゃあ、いつもこんなに喜んでもらって嬉しいよ」
と、突然くるりと顔をこちらに向けてこう言った。
「どうかな、いいかげんこの貴子のやつも、もらってやってくれねえかな?」
一同、爆笑となった。カウンターのお客さんはもちろんのこと、テーブル客までもが話を止めて笑っていた。
確か前にも同じようなやりとりがあったが、そのときは笑ってごまかしてしまったような気がする。
でも今は違う。
はっきりとこう答えた。親父さんの目を見て。
「はい。ぜひ、貴子さんと結婚させてください。お願いします」
「え?」
貴子のお父さんがきょとんとしたままでいると、カウンターにいた常連のお客さんが
「や、こりゃめでたいことじゃないですか、おめでとう!」
他のお客さんからも祝福してくれる言葉が聞こえてきた。
それでも口をぽかんと開けたままの貴子のお父さんにこう言った。
「今、やっと自分の仕事で貴子さんと暮らしていけると感じたところなんです。後で伺おうと思っていましたが、今、こんな場所で申し訳ありませんが、ぜひ、お許しください」
「いや、お許しだなんてとんでもないよ。なんだ、よかったよ。これで一安心だ。な、貴子」
「うん・・・ほんのちょっと、時間、かかったけど。でも嬉しい」
と微笑んでくれた。
それまで黙々と手を動かしながらも、今のやりとりを聞いていた親父が動きを止め、顔を上げてきっぱりと言った。
「よし、今日は早めに店、閉めるか」
母親がその言葉に目を輝かせて
「あんた、そうだよね、めでたいんだからね」
「ああ、今夜はパーっとやろう。久しぶりにな。お隣さん、ぜひ奥さんも連れて来てな」
「ああ、もちろんだよ。早速知らせてくるわ」
素早く立ち上がって店を出ようとするところをすかさず親父が止めた。
「おいおい、食っていかないのかい?」
「あ、いけね。トマトソース、できるんだっけ」
「お父さんたら」
貴子が苦笑いしている。
またもや店内が笑いに包まれた。
和やかな雰囲気の中、貴子がちらっとこちらを向いて合図した。すでに仲間が公園に集まり始めている時間だ。
「それじゃあ、そろそろ行くよ」
「おう、あまり飲みすぎないようにな。夜にはこっちでまたやるんだからさ。あとさ、ソースはよおくからめてな」と親父は念を押した。
「うん、わかった。ありがとう」
店を出るとき、振り返ると母親は優しく手を振り、親父は慌ただしくフライパンを動かしていた。カウンターの貴子のお父さんは、できたてのトマトソースのパスタに手をつけるところだった。
店を後にして、自転車で公園へと向かった。貴子の自転車のかごには、彼女があらかじめ近所の酒屋で用意してくれたワインが、そしてこちらのには、親父が作ってくれたパスタがあった。
「何人くらい来てるかな?」
「さっきメールが来ててね、まだ3人だって。でももう時間だからもっと来てるかな」
「3人て、誰かな」
「ユミコたち」
「ああ、そうか、確かユミコはタカシと一緒になって、あの公園のすぐそばに住んでいるんだね」
二人は仲間のうちでも早くに結婚していた。彼らには「そっちはどうなってんの?」「いつごろなの?」などと、会うたびに聞かれていたのを思い出す。今日も聞かれるかな。
「それで、あとの一人は?」
「ミキちゃん」
「・・・」
誰だろう?仲間の名前を忘れるはずはない。おかしい。全く思い出せない。
貴子がこっちを見て笑っている。
「二人の赤ちゃんよ。すごおくかわいいのよ」
そういうことか。会うのが楽しみだ。
公園の入り口の駐輪場に自転車を置き、かごに入れたパスタとワインを持ち、みんなの待つ場所を目指す。
この公園は、東西に走る私鉄が速度を上げる直線コースの南側にあり、鉄道と同じく東西に大きく広がった長方形をしている。周囲を木々と舗装された道が囲み、ジョギングや散歩をしている人の姿を多く見かける。特にこれといった遊具などは無く、西側に池があるくらいだが、とにかく芝生が広い。それだけで十分満足だ。今日も青空の下、サッカーやバドミントンで汗を流している人たちがいる。
貴子がメールでみんなのいる場所を聞いておいてくれて助かった。
「いたいた。ほら、あそこ」
貴子が指さす前方の大きな木の下に、シートを広げて丸くなって座っている4,5人の姿が見えた。まだ、どれが誰なのかはわからない。でもこれから数時間、大切な仲間たちと有意義な時間を過ごすことだけはわかっている。
貴子がこっちを向いて微笑んでいる。まるで今の気持ちを完全に共有しているかのように。
二十数年を生きてきて、良いことも悪いこともあった。これから先も数限りないほどいろいろなことがあるのだろうが、今この時点ですでに、考えうる限りの幸せを手にしているのだろう。やりがいのある仕事に、大事な仲間。抜けるような青空から吹くさっぱりとした風に、まわりを囲んでくれる鮮やかな緑。そして横には貴子。
少々浮かれた気分になっていた。少しだけ陽が眩しく感じられた直後、段差や石があったわけではないのにつまずいてしまった。
「大丈夫?」
横で声がしたと思ったら、あたりはすでに闇に包まれている。
声をかけてくれた、隣を歩いていた彼女の姿さえ見えない。
彼女?名前は、ええと、名前が出てこない。
何故だ。どうして。ついさっきまで一緒に歩いていたのに。
歩いていた。歩いて・・。右足、左足、そしてまた右足、と順番に。右足?足?
今、暗闇にいる。そして、動いている。前も見えないながら、少しずつ進んでいる。「歩いて」いるわけではない。そもそも、「足」などというものは無い。ではどうやって?何というか、もぞもぞと、全身をくねらせて進んでいる。強いて言えば、さっきどこかでふと目にした、のたくっていた生き物。それを数百倍にしたようなものが自分の姿か。
やがてあたりが見えてきた。さっきまでの強烈な明るさには到底かなわないが、それでも視界が開けてきた。さっきの場所、ええと、何といったか、緑の何かが生え、上は一面の青色の場所とは全く異なる薄暗い場所。ぬかるんだ状態の地面だけがどこまでも延々と続いている。そこでこうして、ただもぞもぞと体を動かしている。
そうだ、これが現実だ。そうだったのだ。このぬかるんだ柔らかい地面以外に何も無い、自分以外に誰もいない世界で、永遠とも思われる時間を、ひたすらのたくって過ごしていたのだった。そしてあまりの退屈さに、想像をしてみたのだった。
最初に、今のこの現実世界よりも、少し明るい世界を想像してみた。黒い空にいくつかの光を置いてみたのだ。そしてその灯りを、「星」と呼んでみた。ある程度の数の「星」を作ってみると少し物足りなくなり、「星」よりも大きな「月」を作ってみた。そしてさらに「月」よりももっともっと明るい「太陽」というものの輝く時間も作ってみた。今のこの現実の、ぬかるんだ状態ではない、固い、乾燥した大地も作ってみた。
次に、自分よりもはるかに、何百分の一よりも小さくて、自分と違い「足」を使って移動し「手」を使う生き物を想像してみた。その生き物がいくつも、数限りないほど存在する世界を。そしてその生き物たちの生活習慣や歴史もいろいろと考えてみた。
その生き物自身のため、或いは「他者」のために働き、生きがいを感じ、また、仲の良い「他者」と交流を持ち、特に親密な「他者」が隣にいるだけで幸福感を味わえる世界・・・。
そんな世界を想像し、創り出し、しばらくの間は退屈を紛らわせることができたが、何かの拍子でその想像が断たれてしまったようだ。