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ピアノ

 その白くて大きな家を通るたびに僕は、そこから流れてくるピアノに少なからずの 好奇心を感じていた。
 僕がその家の前を通るようになったのは、確か中学校に通い始めてからのことだと思う。今でこそ音楽を職業とし、そこそこの充実感を得ているものの、その頃は音符も読めないほどだった。しかし、ある日学校の帰りに友人の家に寄り、いつもとはほ んの少し違う道から帰宅したときのこと、僕はその家から聞こえてくるものに、はじめて「音楽」という言葉が当てはまるような気がした。
 何故なのか理由はわからないが、僕はその日から通学路を変えて、その家の前を必ず通るようにした。別に立ち止まってじっくり聞くわけではなかったが何となく、聞いておかないと落ちつかないような気がした。

 今思うと、僕がコマーシャル用の曲を作ったりする仕事に進むようになったのもそのピアノがきっかけに思えてならない。仮に、もしあのピアノを聞かないでこの仕事をしていたとしたら、これはおそらく間違いないと思うのだが、僕はきっと今ほど順 調な状態ではなかっただろう。そう考えると、僕は非常に幸運なのだと思う。仕事はうまくいき、人のための曲ではなく自分の曲を、まだ大掛かりなことはできないがアルバムを出すことができた。そればかりではなく、申し分の無い女性と出会えること ができ、結婚の相手とすることもできたのだ。

 洋子は僕の作った曲についてこんなことを言ってくれた。
「あなたの作る曲は、ほかのと比べて上辺だけのメロディだけではなくて、何かを持っているような気がするの。だからみんな使ってくれるんじゃないかしら」
 こう批評してくれたどこかの偉い人もいた。
「きみの曲には魂があるんだよ。是非、うちの商品のイメージにあった曲を作ってくれないか。こう見えても私は昔、バンドマンを目指していたんだよ。だから、ただきみが売れている、もてはやされているからといって頼んでいるわけではないんだ。と りあえずはやりの曲を作りました、なんていう魂の無い曲は絶対に使いたくないんだ。わかってくれますか」
 いろいろな人がいて、いろいろな言葉でそれぞれが感じたことを言ってくれた。そしてそれらのほとんどが、表現こそ違っても、僕が曲を作ろうとしたときに思い描いたことと同じことを言い当てていた。だから僕は、さらに自信を持って次の作品を作ることができたのだ。
そんなある日、街中で友人とばったり出会い、久しぶりに遊びに来てもらうことにした。彼は僕と同じようなことを職業としていて、いわゆる売れっ子の状態だった。
「さあ、どうぞ」
 よく冷えたグラスにビールをつがれた旧友はおいしそうに一杯目を飲みながら
「最近出したばっかりのお前のアルバム、さっそく聞かしてもらったよ」
といつになく快活な表情で言った。彼とは大学で知り合い、よく一緒にアマチュアバンド活動をしたものだった。お互いに音楽の道に入れたのは幸運だったと言うべきだろう。

「で、どうだった」
「うん、お前と俺とは言ってみればライバルみたいなものだったけど、正直言って、もう俺にはお前みたいなのは作れないような気がするんだ。お前の曲のように、なんだか人と真剣に話しているような、本音が伝わってくるような雰囲気になる曲はどうも俺には作れないんだよなあ」
「何言ってんだよ、お前の作る曲の方が俺のなんかよりよっぽど引っ張りだこじゃないか」
「いやあ、でも俺のはすぐに飽きられるものばっかりだからさ。俺だって、ものを作ることを仕事としている以上、もっとましなものを世に送りたいよ。お前みたいなものをね」
 妻の手料理に、これおいしいですね、という言葉を幾度となく言いながら彼は続けた。
「奥さん、彼はね、俺と一緒に大学でバンドやって曲を作ってたときから、どっかが違う、と思ってたんですよ」
 洋子はちらっと僕の方を見てにっこりしてから、彼のグラスにビールを注いだ。
「何て言うかなあ。スタジオで練習してるときなんか、俺が「今日は演奏もバッチリだ、なんて思ってると彼は突然、
「今の所、あれじゃ駄目だ」なんて言って演奏を止めちゃって、考えちゃうんだ。それで他のメンバーが「どうしてかなあ」なんて言い出すころには、もうその部分をもっと良くするアイディアが彼の口から出てくるっていうわけさ。やっぱり、お前の曲には個性というか、芯というのかな、それが一本びしっとあるんだよな」
僕は、決してお世辞は言わない-特に飲んだときは-この友人の言葉に感謝した。

 酒を飲み、世間話などをしながら、二人ですっかり料理を平らげたころには、もうかなり遅くなっていた。
「いやあ、もうこんな時間だ。電車がなくなっちまう。失礼しなきゃ」
 あわてて帰ろうとしていた彼だったが、あいさつをして玄関を出ようとしたとき、何かを思い出したように振り向いた。
「あ、そうそう、まだお前の耳に入ってないかもしれないけど、お前の曲を映画に使いたいっていう話があるらしいぞ。しかも外国映画のな。そうなりゃお前も言うこと無しだな、おめでとう。それじゃ、奥さん、おいしい料理、ごちそうさまでした」
 彼が帰ったあと、彼女も僕に「おめでとう」を言ってくれた。
 それでもやはり、落ちつかないというか、心のどこかで、あのピアノが必要な気がして、自分の家に仕事場を持ってる今でも、散歩のコースに組み込んでまで、相変わらず、学校に通っていた頃と同じようにあの白くて大きな家の前を僕は毎日歩いていた。音楽を職業としていても、そのピアノが奏でる旋律のいったい何が僕を魅了するのかはわからなかった。ただ一つ言えるのは、安易な表現かもしれないが、弾いている人間の「心がこもっている」ということではないだろうか。
とにかく、そのピアノを聞くことによって作曲活動に安心して打ち込めるということはもちろん喜ぶべきことではあるが、その反面、ある疑問が生じた。
それは、僕には結局、そこまで人を夢中にさせる、それこそ何年ものあいだその音を聞かずにはおれなくさせてしまうような影響力を持った曲は作れないのではないか、という疑問だった。

 最初のうちは、いずれは僕もそのようなものを生み出すことはできるに決まっているが今はまだその過程にある、などと軽く考えていたが、毎日その「音楽」を聞いているうちに、その考えも少しずつ変化してきた。
それと同時に、いったいどんな人が、あそこまで見事に「人間の感情」を「音楽」で表現しているのかという疑問も生まれた。まるでピアノの音色そのものが、「人の声」、「人の心」そのもののような錯覚さえした。僕はしだいにその魔力とでも呼べる音色にとりつかれていった。
「新しいのができたよ。聞いてみてくれる」
 僕は新しい曲が完成すると、まず彼女の感想を聞くことにしていた。
 僕ができたてのテープを渡すと、彼女はいつものように、キッチンにあるあまり音は良いとは言えないが、彼女のお気に入りのラジカセにテープをセットしてテーブルに座り、姿勢を正してじっと目を閉じた。
 しかし、そこから先はいつも通りにはいかなかった。妻の表情が変わってきた。いつもはうん、うん、と納得するような表情でうなづき、曲が終わるとそれが笑顔に変わったものだが、今回は曲が終わると同時に、彼女はその整った顔をしかめっ面にした。
「あなた、どうしたの?いつもと違うみたい」
 いままでの彼女の批評がお世辞ではないことがこれでより一層はっきりしたのは皮肉だった。
 僕は、彼女の言うことが間違いではないことがわかっていながら、そのテープを使うことにした。創作に妥協などは許されてはならないし、今までしたことも無かったのだが、今度ばかりは、どうもがいてもそれ以上のものができるとは到底思えなかったからだ。

果たして僕の曲を聞いた人の何人が、そのメロディを覚えているのか。次の曲を聞いたら、もうそれで忘れているのではないか。考え始めたらきりが無かった。やはり気に入ってくれているのはごくわずかな人間で、彼らでさえ、実は金銭がからんでいなければあんな笑顔で近づいてはこないのではないか。所詮自分は単なる「はやりの作曲家」でしかないのでは・・・。
 小さな頭を見せた、取るに足らないと思い込んでいたその疑問は、あれよあれよという間に巨大な姿で暴れだしてしまった。
 しかし彼女はそんな僕を、できるかぎり気分転換させようと、ありとあらゆる努力をしてくれた。僕はそんな彼女にはやく安心してもらいたいという思いで作品の水準を引き上げようと努力をしたつもりだったが、空回りを繰り返すだけで、もがけばもがくほどどうしようもない、曲とはいえないようなものばかりができあがった。
 最初のうちは、それでも使ってくれるところはあったものの、「はやりの曲」以下に成り下がった最近の曲は、次第に見放されていった。
「音楽なんて、音符をどう並べるかだけじゃないか!それなのに、どうしてこんなにも違うんだ!」
 酒を飲んで叫んでみても、いいものはできず、順調に作っていたときの感覚が余計に遠ざかっていくような感じがした。そして、あのピアノを弾く人に会ってみたい、あのピアノを弾いてみたい、という思いだけが強くなっていった。
 そんな僕にもかかわらず、彼女は十分過ぎるほど僕のことを気づかってくれてはいたが、ここのところ彼女のラジカセにセットされているのは僕のテープではなかったし、同じ家にいるときでも、電話で僕以外の人間と話すときは、いつもより笑顔が広がっているように思えた。

僕は自分自身の音楽を取り戻すために、あのピアノの旋律を弾いてみることにした。それまでは決してしたことの無い行為だった。どんな曲を真似ても、その曲だけ はしてはならないような気がしていたからだ。そうすることによって、いよいよ自分 自身のものが消えてしまい、作る曲全てが模倣に終わってしまうことを恐れていたからだ。しかし、もうそんなことを言っている場合ではなかった。これまで聞いてきて自分独特の曲を作ることができたのだから、こうなってしまった今、あの曲そのものを真似てみれば、順調に仕事がはかどっていたころの感覚が戻るような気がした。
 実際弾き始めてみると一瞬体中に電気の走るような感覚があり、それと同時に、今まで自分のやってきたことが「音楽」と言えるのだろうか、この感覚こそが「音楽」ではないか、という思いが指先から全身へと流れていった。
 しかし、全く同じように弾いてみても、あの白い家から聞こえる「音楽」とはまだまだかなりの差があった。どうしてだ。どうしてなんだ。何が違うんだ。何回も何回も聞いているから音は覚えてしまっている。それなのに何故同じように弾けないんだ。そうか、感情だ。心が無いんだ。自分の演奏には魂が入っていないんだ。そのことに気づいた僕はがむしゃらに弾き続けた。
「あなた、いつまでそんな気味の悪い曲を弾いてるの?」
「何だって」
 見ると妻はかわいそうな人に向けるような顔をしていた。
「これのどこが気味の悪い曲なんだ」
 その言葉で彼女の表情はさらに険しくなった。
「だって・・・」

 その日から、僕は彼女の言う「気味の悪い曲」を延々と引き続け、彼女の外出と僕の酒量は増え、二人の会話は減った。
 それからどれくらいたったのだろう。ある日都心のスタジオでの作業をキャンセルして、酒を買って家に戻ると、中は真っ暗で、物がちゃんと残っているのは僕の仕事部屋だけだった。
 僕はいつも通りの、感情の足らない曲を鍵盤に向かって弾くだけだった。女なんかより、あの曲をこの自分の手で演奏することこそが夢であり、唯一の目標だった。そうは思ったものの、やはり彼女のいない家は寂しかった。彼女は僕のテープは全てこの家に置いていったようだった。そして電話が鳴った。
「洋子か、早く来いよ、何ぐずぐずしてるんだ」
 僕の良き友人、僕の良きライバルだった。
 彼女が戻って来なくても、家中がほこりだらけになっても、僕は鍵盤に向かい続けた。しかし、いくら弾いても本物には近づけなかった。もう、このまま永遠に弾いていても、あの曲を忠実に、満足のいくように弾くことは不可能なのだという思いが、僕の足を動かした。
 やはり先にここに来るべきだったのか。僕はあのピアノの聞こえる白い家の前に立っていた。その二階建の家にはほとんど窓と呼べるものは無いにもかかわらず、中からはあの「音楽」が聞こえていた。そのピアノの音程は、僕が家で弾いていたのと全く同じだった。でも、どういうわけか違う。全く違う。同じ人間の手で弾いているはずなのに、何故あれほどの感情が込められるのか。僕はその答えを知るためにその家のドアを叩いた。

「どうぞ」
 中から女性の声がした。ピアノの演奏が止まることは無かった。僕はきしむドアをゆっくりと開けた。
 再び声がした。僕の耳がおかしいのだろうか。その声は和音のように響いていた。
「お待ちしてたのよ。いつくるか、いつくるかと」
  玄関に入ると、僕の前の左側に階段があり、右側には廊下がまっすぐのびていた。
暗く、ひんやりとしていた。その冷たい空気の中を声は、ピアノと同じその奥のドアの向こう側から聞こえてきた。
「さあ、はやくいらして」
 僕には、もう自分の意識で廊下を歩いているのか、それともその女性の不思議な声に引き寄せられているのかわからなかった。
 暗い廊下を通り抜けて奥のドアを開けると、そこはピアノ一台だけが置いてある大広間だった。その薄暗い部屋には、ピアノに向かっている髪の長い女性の後ろ姿だけがあり、他の人間の姿は見えなかった。窓の無い壁一面は濁った灰色で汚れているようだったが、よく見るとそれは汚れではなくて模様だった。そしてこの部屋のどこかに、何人もの気配が感じられた。いや、気配というより声と言った方が正解だろうか。聞こえない声、とでも表現すればいいのかもしれない。それが無数に感じられるのだ。

ピアノを弾き続ける彼女に後ろから近づくにつれ、僕はこれまでの自分の支えであったあの音色、旋律をこの体で実感できるという興奮を味わった。彼女は黒いドレスを身につけ、そこから伸びる白い腕が忙しそうに、でも優雅に動いていた。
「あなたも、このピアノで、この曲を弾きたくて仕方ないんでしょ」
 そう言って振り向いた彼女の顔は腕と同じ、透き通るような白だった。僕は彼女の視線に全身がんじがらめにされ、彼女のそばまで引き寄せられていく間に見た。彼女の腕の先を。ひじから先は普通の人間のそれではなく、何本もの肉が生えていた。そしてそれぞれが鍵盤と密着していたのだ。ただくっついていたのではない。どこまでが彼女の腕、いや、触手でどこからか鍵盤かがわからないほどに融合していた。そしてあやしく動く触手の一本一本は必ずしも決まった一つの鍵盤だけとくっついているわけではなく、つねに最良の位置を計算しているかのようにくっついたり離れたりしていた。触手を待ち受けて鍵盤たちはうごめき、それと解け合うと、あの、僕を虜にした音色を響かせていた。
 そして僕はピアノを弾き続ける彼女の唇に吸い寄せられた。
 それは、とてもではないが言葉で現すことのできる体験では無かった。あえて例えるとすれば「溶けるようなキス」だろうか。そうだ、その表現以外にはあり得ない。
 僕は自分の体が、正体さえわからない彼女とのキスによって変化していくのがわかった。しかしそれは、かつて一度も経験したことの無い快感だった。皮膚が湿気を帯び始め、服は全てちぎれて床に落ち、体中の肉という肉が脈打ち始めた。それでも僕の意識は、ピアノの音色と彼女の唇で溶けていくこの瞬間に欲情していた。

僕は彼女の体を抱き寄せるために腕をまわそうとしたが、それはできなかった。すでに僕の腕は溶けてしまっていたのだ。いや、腕だけではない。もう僕の体は人のものではなくなっていたのだ。僕は今や幾つかの鍵盤となっていて、彼女の白い腕とつながっていた。そして僕はそれこそ彼女の思うままに、彼女の演奏したい音を感覚として直に受け止め、奏でることができるのだ。
 そうか、そういうことだったのか。彼女はこうして、「音楽」に魅了された人間を自分の一部、ピアノの一部としていたのだ。そしておそらく、二度と外に出ることはできないのだろう。

 僕はただ、他の鍵盤たちと同じように、彼女の思い通りに、美しい、この世のものとは思えない、彼女以外の誰も弾くことのできない曲を奏でている。
 ああ、彼女の腕、手のひら、指先のあらゆる部分とつながり、一体化して「音楽」を生み出すことになろうとは。
 僕はふと、今まで人間として暮らしてきた日々を思い出した。さまざまな出来事が思い出された。子供の頃遊んだ公園、両親の愛情、退屈だった授業、受験、ちょっとしたバイク事故での入院と何度も見舞いに来てくれた洋子の顔、新しい生活・・・。
 しかし、そのつかのまの喜びも、灰色の部屋に響く白い顔の彼女の言葉で後悔に変わった。
「あなたが来てくれたおかげで、悲しい曲を、ほんとうに悲しそうに弾けるようになったわ。ありがとう。ふふふ・・・」

延々と、いつ終わるともしれない演奏が続く。時間の感覚などはとっくに無くなっている。ここでこうして彼女と「音楽」をしている。それだけだ。それ以外には過去も未来も何も無いのだ。
 外で洋子の声がかすかに聞こえたような気がした。
「あら、この家から聞こえる曲・・。いつかどこかで聞いたような気がするわ」
「どうしたの、おかあさん」
「ううん、なんでもないわ。早く帰って、おとうさんのお誕生日祝いのごちそうを作りましょうね」
「うん」
「でも、気味の悪い曲だわ」
僕が奏でる音は、他の誰のものよりもずっとずっと悲しいに違いない。

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